『ショアー』第一部

シネ・ヌーヴォで、『ショアー』第一部を見た。この前、この映画を見たのは、10年前か20年前か。


あらためてみると、ホロコーストを扱った無比の歴史的証言の映画化というだけではなく、構成といいカメラワークといい、きっちりと作りこまれた映画だということがよく分かる。
以前に見たときは、証言の重さはともかくとして、風景については淡々と撮っているだけの映画だと思ったが、まったくそんなことはなかった。
とくに、虐殺の傍観者となっていたポーランドの人々の内面を抉り出した中盤部では、インタビュアー・取材者としてのランズマン自身の存在が、非常に利いている。
根深い差別感情を滲ませる冷淡な証言が続く中で、ごくまれに、虐殺を止めるようなことは何も出来なかったが、危険を犯しても最小限のことをしたとか、当時のことを思い出すと涙が溢れるといったことを告げる人があり、ランズマンがそうした証言を本心では聞きたいと欲しているのだということが、画面からうかがえるように感じる。
これは、そうした人間的な心情が、このホロコーストという出来事をめぐっては、いかに加害者においてほとんど抑圧され失われているかということ、だからこそ、ユダヤ人であるランズマンは、そういう感情の発露に立ち合いたいと願わざるをえないのだ、ということを示していると思う。
ドイツ兵たちが、自分たちが虐殺した遺体を、ユダヤ人たちが「死者」とか「犠牲者」とか呼ぶことを禁じ、「役に立たない存在だから」という理由で「丸太」などという蔑称で呼んでいたという話や、撮影当時でもなお差別や民族的憎悪に凝り固まっていると思えるポーランドの農民たちの酷薄な証言を聞くと、そこでは、個人としての感情や倫理観はすっかり削り落とされて、軍や産業や官僚制の論理へと統合され、そのことの痛みや後ろめたさから逃れる為に自ら非人間性の中にのめりこんでいくという悪循環が生じていたのであろうということや、また集団的な心情も、他民族・他者への憎悪と虐殺の肯定へと、社会的に組織されていたのだろうと思わざるをえない。
その意味で、ホロコーストが、けっして何らかの時代の終わりや、例外を示すものではなく、長く続くひとつの時代の始まりを告げる出来事だったということを、現代に生きる私たちは実感せざるをえないのである。