本の紹介について

きのうのコメント欄で、なぜ読みおわっていない本の紹介をしたりするのか、という趣旨のご意見をいただきました。もっともな疑問であり、またご批判であろうと思います。
これについてのぼくの見解は、やはりコメント欄に書いたのですが、もう少し詳しく説明しておきます。


ぼくは、本についてのエントリーでは、「ある本(の全体、もしくは部分)についての感想」と「ある本についての書評」とを一応は分けてかんがえています。書評として書く場合には、全部を読んでから書いたほうがよいとは思いますが、感想の場合は、断片だけを読んでそれについての印象や思いつきを書いたり、また何日もかかって読みすすめていく過程を同時進行的にブログにアップしていくという書き方もあってよいはず、いや、許されるべきであろうとかんがえます。
最近では、ロナルド・ドーアの『働くということ』について、7回にもわたってエントリーを書いたのですが、あれはそういう書き方でした。


「感想」と「書評」とを、実際にはそれほど明確に分けて書いているわけではないのですが、全部を読んでいない本については、(全体についての)書評めいた文言をなるべく書かないようにしている、というのが普段の姿勢です。


ところが今回のケースでは、本の一部分についての感想だけを書くはずが、全体についての書評のようなことを書いてしまった。それは語られている本についての誤った情報を読む人に与える恐れがあることだし、著者にも気の毒である。その点を反省したわけです。


ただ、これはぼく自身のことを離れて言うのですが、一部分しか読んでいないことをはっきり書いた上であれば、その本の全体についての予測を書くことは、本当は許されるのだろうと思います。
たとえていうと、あるグルメ評論家が寿司屋に入ってヒラメとアナゴだけしか食べなかったのに、「あの店の寿司ネタは全部まずい」と書くことは、読者に嘘の情報を流したことになる。でも、「あの店ではヒラメとアナゴしか食べなかったが、それから推測すると寿司ネタは全部まずいだろう」と書くことは、嘘の言明ではない。要は読む側が、この評論家をどれだけ信用するか、ということです。
つまり、「全部読んでから語るべきだ」という一般的な倫理(ぼくはそれに従いますが)が、絶対であるとは限らない。ぼくが思うに、この評論家のような態度が許されて、なおかつ批評のモラルハザードが起きなかったというのは、結局近代の消費社会の構造によるものだったんじゃないかと思います。この辺は、いずれ別に詳しくかんがえたいです。
ただ今回のケースでは、ぼくは上の例でいうと、「推測すると」の一言を入れず、断定的に書いてしまった。それはよくないでしょう。


また、ある一部分だけを読んで判断した全体像が「肯定的な誤解」であれば、紹介文(書評)としては失格であっても、読者にとっても著者にとっても、それほど害は大きくないともいえる。つまり書き手自身の倫理としては駄目なんだけど、それによって逆に社会的にいい結果が生じることもありうる。
これも、難しいところですね。


まあそうしたことはともかく、ぼく自身は今回のことを反省して、今後全部を読んでいない本についての感想を書く場合には、それにふさわしい書き方をはずれないよう心がけたいと思っています。