ブログは商品たりうるか

早速だが訂正しなくてはいけないことがある。
きのう、永江朗の『<不良>のための文章術』について、「ブログの文章を書くのには参考にならない」と暴言をはいたが、大間違いだった。この本は四つの章からなっていて、最後の章でコラムとエッセイの書きかたを論じている。今日この章を読んだところ、ブログを書くうえで滅茶苦茶参考になることばかりが書いてあった。どう書いたらいいのか悩んでいる方は、ぜひこの本を読むことをおすすめしたい。
最後まで読んでから紹介しないと、やっぱりだめだなあ。まだ読みおわってないけど。


ところで、それに関連してきのう書きかけたことを展開してみる。
永江の書いている「書き方のコツ」に学びたいところだが、まだあんまり頭にはいってないので、あいかわらず読みづらいのはご容赦ねがいたい。


プロのライターが書く文章は「実」であり、ブログの文章は「虚」ではないかと書いたとき、商品化された文章とそうでない文章、という意味で両者を区別したのである。自分の趣味や主観をそぎおとし、読者(消費者)のニーズにあわせて商品としてつくりあげられるプロの文章に要求されるノウハウは、商品化を前提にしていないブログの文章を書くことにはそのまま応用できないのでは、という意味だった。
正直、商品化された文章に対置できるほどの自立した地位を、ブログの文章というものはもっていないのではないか、もっているとかんがえるのは幻想じゃないか、という気持ちがぼくにはあった。そして、そういう幻想をもつことに危うさを感じたのである。だから、あえて「虚」というわかりにくい語をつかった。
もっと踏みこんでいうと、ブログの文章で、他者同士の対話や伝達をきずきあげるのは不可能ではないか、と思ったのだ。商品化された文章がもちうるような、他者(読者)との緊張した現実的な関係をブログにもとめることはできない。ブログに可能なのは、そういう現実的なコミュニケーションではなく、別のものではないのか。では、それをどう定義すればいいか。


ここで思い出されるのは、先日紹介した森美術館の荒木夏実さんという方の言葉である。


ここでは、現在の社会の人々は「他人の物語」を聞きたがっている、それに触れて「自分の物語」が湧き起こってくることを欲している、そういうことが語られていた。
現在のブログブームの背景にあるもののひとつは、明らかにこうした欲望だろう。
それは、これまでの(フォーディズム時代の)市場においては商品化されず、したがって流通することのなかった「小さな物語」へのニーズが生じた、ということだと思う。
ぼくのここでの文脈では、それが「商品化された文章」に対する「ブログの文章」にあたる。


これをどうとらえるか。
これらの諸個人の物語が、これまでなぜ流通してこなかったかというと、商品にならなかったからだ。「大きな物語」の文脈にあうものしか、人々は興味を示さなかった。では、現在では、こうした個人の物語は商品になるようになったのか?
そこが難しいところだが、ぼくは実際には商品になってはいないと見ている。「消費の多様化」などといって、あたかも商品になってるかのようにもてはやされてるが、実際はそれほど買う人はいないのではないか。そのあたりの欺瞞性が非常に気になるのだ。


商品になっていないということは、この場合、他者との交換(コミュニケーション)が本当は成立していない、ということを意味する。それは自己と同一的な、共同体の内部の交換にしかすぎない。にも関わらず、そこでコミュニケーションや議論や社会的な関係性が成立しているという幻想が支配しているなら、他者の存在が考慮される余地はない。排除の対象、邪魔者として以外は。


現実には商品化されていないものが流通(交換)されているというのが、ブログという領域の現状であろう。
この交換は、非常に狭い共同体のなかだけで成り立っている。
この共同体は、一見すると市場原理の外側に、それに対するアンチテーゼのように存在してるみたいだが、本当にそうか。それはいわば、幻想のなかに囲い込まれ、自足することによって、市場原理の世界を補完する役割を果たしているのではないか。それは、生きる力を減退させることにつながるのではないか。


こうした問いかけは、『魂の労働』の「ポストモダンの宿命論」のなかで渋谷望が提起したものと同形であろう。
それはポスト・フォーディズム的な交換、あるいは共同性が有する両義性の問題だと思う。


両義的だというのは、商品化されないものの交換という現象のなかに、やはり市場原理に対抗しうるなんらかの可能性があるはずだからだ。
問題は、この交換が成立している共同体を、いかにして「開かれたもの」にするか、ということだ。とりあえず、ぼくたちはこの共同性以外からははじめられないのだから。


そのためには、この領域の自立性が幻想にほかならないこと、まだ自分たちなりの現実的なコミュニケーション(交換)の段階にぼくたちが至っていないことを、自覚しているべきなのだ。
『自分のやっていることが「虚」であることは忘れないようにしたい』ときのう書いたのは、そんな意味だった。


ところで、このことは言い換えれば、商品化(フォーディズム)の論理が有していたものとは別の倫理性、つまり他者の眼差しを、この閉じられた交換の領域に導入していくということだ。
ブログについていえば、「消費者」ではない読者、しかし、いわば共同主観的なものではない他者としての読み手の眼差しをどれだけ意識できるかが、この領域の、市場原理や管理社会からの独立性を決めるだろう。
ウェブ上でのコミュニケーションの可能性は、この「消費者ではない他者」との関係性の模索にこそあるのではないか。
そういう新しい交換、あるいは交通の空間を開いていく模索は、おそらくまだはじめられたばかりである。