『デリダ、異境から』 その2

Arisan2005-04-24



先日、甲南大学で行われた『デリダ、異境から』の上映とトークについて、簡単な感想をここに書いた。
映画の内容について、あまり詳しく書くことを遠慮したのだが、考えてみると、この作品は一般に見られる可能性が商業作品ほどには高くないので、見られなかった人のためにもう少し内容を紹介した方がいいかなと思うようになった。
断片的になるが、デリダ本人が映画のなかで言っていたことのなかで、特に印象に残ったものをいくつか記しておきたい。
ただ、自分が上映時の暗闇のなかでとっていたメモを元にして1週間前の記憶を再構成しようとしたのだが、もともとちゃんと見れていないうえに、すでに記憶も、デリダの面影と共に過去の暗闇のなかに消えつつある。不正確で曖昧な記述になることを、ご了承いただきたい。


① 書くことは正当化できない。

 デリダは膨大な量の文を書き、本もたくさん出版している。人はそんな彼を見て、よほど書くものに自信があるのだと思うかもしれないが、そうではない。
書くということ、自分が書いたものを人に読まれるということは恥ずかしいことであると、彼は言う。それは自分をさらけ出していることであるからだ。「目立ちたいから書いたのだろう」と言われたら、その通りですと言って謝るしかない。
その意味で、書くという行為は、正当化できないものなのだ。


この話は、ぼくにはたいへん興味深かった。それほど「書く」という衝動につき動かれているということだろうが、その行為を合理的に正当化することはできない。そういう意味ではないか、と思う。「恥ずかしい」という言葉が、たいへん印象的だった。


② 全体主義は、秘密の粉砕だ

 この言葉は前回も書いたが、デリダは人の心にとって、秘密を持つこと、秘密を大事にするということはもっとも大切なことである、というふうに言っていたと思う。
信仰を秘密のうちに実践していたというマラーノ(スペインのユダヤ教徒たち)の歴史に、彼は深くとらわれているように、ぼくには見えた。
全体主義とは、秘密をあばきたてて、闇雲に何もかもを明るみに出してしまおうとするものだ、と彼は強く語っていた。


③ 破局と歓待

 本当の歓待は、絶対的な破局においてのみなされるのだ。そういう話だったと思うが、詳しく覚えていない。大事なとこなのに、すみません。


④ 「われわれ」

 共同体でなく、他者との距離を内包する複数性としての「われわれ」が重要であるし、それは可能だ、といった話。その関係性は安定したものではなく、「さいころを振る」ようなものだ、と言ってたと思う。
非常に重要な点だろうが、これも詳しく書くことが、ぼくにはできない。


⑤ 同一性への欲望

 何が同一性を欲望させるのか。それは、「私」が不在であるということだ。「私」があらかじめ確認され保証されているなら、同一性への渇望は起こらず、自伝などを書く必要もない。「私」の存在に不安があるから、その同一性に対する欲望は掻き立てられるのだ。
これは、デリダ自身のことをめぐって語られた言葉だろうが、ぼくは国民と「自国の歴史」との関係にもあてはまるのでは、と思って興味深く聞いた。


⑥ 生き直す

老年のデリダにとって、今関心があるのは、新しい経験をすることではなく、人生を反復すること、その意味で人生を「生き直す」ということだ、と言っていた。
ものすごく卑近な例だが、ぼくも最近、読んだことのない本を読むより、以前読んだ本を読み直すほうが重要ではないか、と思うようになった。
それにしても、人生そのものを反復して生きたい、というのはすごい言葉だ。「やり直したい」というのはよく聞くが、そのまま「生き直す」、というのは・・・。
ただ、よくなかったことは反復したくない、みたいにも言っていた。正直な人だ。


あともうひとつ、非常に印象に残った箇所があったのだが、それは前回書いたトークのなかでのスリリングなやりとりに関係する部分であるので、ここではふれないことにする。
ただ、ぼくには個人的に、このやりとりは非常に心を動かされる部分があった。
総じて、前回も書いたが、デリダの気取らない人間的な風貌と語り口が印象的であった。港町に暮らす、移民の職人のおじいさんといった感じに見えた。人間と人間とのつながりを、大切にした人であろう、との感想をもった。
それを引き出すまでに対象に肉薄した、作り手たちの仕事を賞賛せねばならぬのであろう。