『オリエンタリズム』序説

『魂の労働』の後に何を読もうかと思ったが、読みかけのままずっと放ってあった本に再挑戦することにした。サイードの『オリエンタリズム』だ。

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

あまりに有名な本なので、何度か読みかけるのだが、いつも挫折してしまう。著者以外が書いた資料としての昔のテキストを読むのが、面白くないためだと思う。
とりあえず序説を読んでみたが、今回はかなり楽に読めた。

なぜなら、人文科学におけるいかなる知識の生産であれ、その著者が人間的主体として周囲の環境に巻き込まれていることをおよそ無視したり否定したりはできないということが事実だとすれば、オリエントを研究対象とするヨーロッパ人ないしアメリカ人が、彼らにとっての現実の主要な環境条件を否定できないということもまた事実であるに違いないからである。言い換えれば、ヨーロッパ人またはアメリカ人は、まず最初にヨーロッパ人またはアメリカ人としてオリエントと直面し、しかる後に一個人としてそれと直面するのである。(38ページ)


イードが示したこうした視点の重要さは、今も変わることはないが、「著者」の主体的な条件を重視するという意味では、彼の考えは方法上の師であるフーコーの、つまりポストモダンの考え方とははっきりと一線を画しているということになろう。このことは、サイード自身も強調している。


そのうえで、

むしろオリエンタリズムとは、地政学的知識を、美学的、学術的、経済学的、社会学的、歴史的、文献学的テクストに配分することである。(中略)さらにまた、オリエンタリズムとは、我々の世界と異なっていることが一目瞭然であるような(あるいは我々の世界にかわりうる新しい)世界を理解し、場合によっては支配し、操縦し、統合しようとさえする一定の意志または目的意識を――を表現するものというよりはむしろ――そのものである。(中略)実は私が本当に言いたいことは、オリエンタリズムが、政治的であることによって知的な、知的であることによって政治的な現代の文化の重要な次元(ディメンション)のひとつを表現するばかりか、実はその次元そのものであって、オリエントによりはむしろ「我々の」世界のほうにより深い関係を有するものだということなのである。(40〜41ページ)

オリエンタリズムがともかくも意味をなしえているのは、東洋(オリエント)のおかげではなく、むしろ西洋(ウエスト)のおかげなのである。そしてその意味は、オリエントについての言説(ディスクール)のなかで、東洋(オリエント)を可視的で明晰な「其処」なる存在に西洋の表象技術のあれこれにもっぱら負うて成立しているのだ。すなわちこのような表象は、制度、伝統、慣習、あるいは表現効果を理解するための合意にもとづいた暗号等に依拠しているのであって、彼方に模糊としてあるオリエントに依拠しているのではないのである。(p60)


イードが目指したのは、西洋の知・文化という「こちら側」の構造としてのオリエンタリズムを暴くことだった。


ところで以前読んだときには、この本に書かれた西洋とオリエントとの関係を、日本と「中国」や「朝鮮」との関係に置き換え、いわば支配し表象する側としての日本、という視点しか頭になかった。だが考えてみると、西洋から見れば日本もオリエントである。日本がアジアを支配し表象したという事実は、同時に日本自身が欧米から支配し表象されていたということを、その二重性の構造を理解しなければ十分にとらえられないはずだ。
分かりきったことなのだが、今回はじめてそれを強く意識しながら読んだ。すると、今までにない興味がわいてきた。


むしろ、ぼくが今の日本の中国や朝鮮などに対する態度を省みる上で、きちんと読まなければいけないと思うのは、著者が一パレスティナ人の立場からアメリカ社会の現状を批判する次のような部分である。

アラブないしはイスラム教徒を封じ込めるものとしての、人種差別主義、文化的ステレオタイプ、政治的帝国主義、反人間的イデオロギーの網の目(ネットワーク)は、まことに強力である。この網の目(ウェブ)こそが、すべてのパレスティナ人にまたとない過酷な運命を感じさせている。パレスティナ人が合衆国では近東学者、すなわちオリエンタリストのうち誰ひとりとして、文化的にも政治的にも心からアラブに共感したものが未だかつていなかったという事実を指摘すれば、事態はさらに悪化するのが常であった。たしかに、いくつかのレヴェルでは共感が存在したことがある。しかしそれも、リベラルなアメリカ人がシオニズムに対して示す共感のような「許容的」形態をとることは決してなかった。(70〜71ページ)