『アメン父』

アメン父 (講談社文芸文庫)

アメン父 (講談社文芸文庫)

作家田中小実昌の父、田中遵聖という人は、広島県呉の山の中腹に「アサ会」という教会を立てて活動した牧師であったらしい。この小説は、この父のことをめぐって書かれた作品。
ずっと前からこの小説のことを紹介したかったのだが、なかなか出来なかった。
正直なところ、この作家に関しては、作品の一部分を切り取って引用するということが、たいへんしにくい。たぶん、そういうことをもっとも嫌った人だろうからだ。
しかし最近、いくつかの箇所がたいへん気になってきたので、その部分をできるだけ丁寧に書き写すことにしたい。
ぼくは、日本でのポストモダンとか、解体の徹底というと、この作家のことしか思い浮かばない。そういう言葉遣いを、本人は一番嫌っただろうが。このエントリーの分類も「文学」にしようかと思ったが、そういう言葉に疑問を呈し続けた人だったので、やめることにした。
ともかく、たいへん分かりにくい作家であり、これもたいへん難しい小説だと思う。ぼくにはほとんど分からないが、それでも書いておく。


はじめに、「アサ会」とは何か。作者は、『どこの派にも属さない、自分たちだけの教会』だったと書いている。田中遵聖はアメリカでプロテスタント(ユニテリアン)の牧師、久布白直勝という人から洗礼を受けたが、最終的には呉にこの自分の教会を開いた。建物に十字架のない、ずいぶん変わった教会であったらしい。どのぐらい変わってたかというと、同じ作者の有名な小説「ポロポロ」にも詳しく書いてあるが、インターネットでは下のサイトに紹介されていた。上から二番目の、6月11日の説教の文章のなかに出てくる。


http://www.ceres.dti.ne.jp/~makotu/church/preach/2000/0006.htm


信者の人たちが礼拝中に、みんなで「異言」を叫びだす、というふうであったらしい。これは、いまでもずいぶん気持ち悪がられるだろう。しかも、戦時中の、軍港都市呉でのことである。
田中小実昌は、この父の教会の様子と、父の姿を見て育った。


それで、その十字架と信仰について書かれた箇所。

十字架を信じるって、どういうことなのか。こちらが信じるという観念的なことよりも、十字架のほうでぶちあたってくるほうが、事実なのではないか。そして、こばんでにげまわっていたが、十字架にぶちあたられ、もったいなさにびっくりし、しかし、また、それでいっぺんにせいせいしきよらかになるものではない。光が見えたら、自分がおかれている闇も見える、地獄も見える。そして、光も、闇も、そういう心境ではない。心境ならば、むつかしいけど、転換もできるかもしれないが、そうはいかない。だから、地獄は地獄、地獄にあれば地獄でアーメンってことで・・・・。


もう一箇所、父親の信仰のあり方について書かれた文章。

しかし、変わった人と父をおもったら、なんにもならない。たしかに、アサ(父の教会のアーメン)にあうまでは、父はいわゆる変わり者とか、そのほかいろいろの性質の男だったろう。しかし、アーメンにぶつかられ、それらはみんなくだけてしまった。でも、ニンゲンの性癖というより、ニンゲンそのものはしぶとくて、アーメンでこなごなになったのに、まだ残っている。そういうのを罪と言うのだろう。ニンゲンはもろいものだが、アーメンに反抗するときなどはしぶとい。しかし、またアーメンにうちくだかれ、それでも反抗し、またまた、とアーメンはぶつかってくる。そんなふうだと、ただの変わり者ではいられまい。


他にも書き写したいところが多々あるのだが、くどくなるのでこれだけにします。
本を読んでください。