『ポスト・オリエンタリズム』

ポスト・オリエンタリズム――テロの時代における知と権力

ポスト・オリエンタリズム――テロの時代における知と権力

近所の図書館にあることを知って、さっそく読んでみた。


 書名の「ポスト・オリエンタリズム」とは、かつてサイードが批判した、西洋(植民地主義諸国家)による政治的な「東洋」(オリエント)なるものの創出の方式としての「オリエンタリズム」が、今日(特に9・11以後の米国)の社会においては、まったく新しい様式のもとに出現しているという事態を示しているようだ。

ここでの主張は、今日実際にエージェント的主体のあり方が欠けた知の様式が目撃されているということである。そしてそれがヘゲモニーなき帝国のやり口である。シンクタンクで特定の利害をもった知識として生み出され、その後公的空間に浸透していくようなあり方、すなわちエピステーメーの内方浸透こそが「使い捨ての知識生産」の多様な方法を促しているのである。これは長持ちもせず正当でもないエピステーメーに根拠を置き、即席の満足を与え一度の使用ですぐに捨てられてしまう返品のきかない日用品をモデル化したものである。(p253〜254)

(前略)近年のイスラームや「中東」についての知識生産の局面は、エピステーメーの内方浸透と呼びうる知の様式の指標となっている。すなわちこれはポスト・オリエンタリストの時代という局面である。この時代には知はもはや大学や研究所には集まっていない。実際は私的なフォーラムや公的なフォーラムにおいて多様な形式をとって広く拡散している。(中略)ここで言う「内方浸透」とはマスメディアを包んでいる透過性のある薄い皮膜をとおして、確かな情報や偽の情報がわれわれの内部へ浸透してくることを指す。マスメディアは多様な情報が散布される細胞の迷宮であり、そのような情報が変質する空洞でもある。そのようなマスメディアの被膜をとおして情報はパブリックな領域全体に浸透していき。突然変異して巨大な集結物になる。(p264)

 こうした「オリエンタリズム」(政治的・支配的な知の様式)の新ヴァージョンは、もちろん、世界資本主義の変化に応じて出現してきたものであり、その現実のさなかで、この知を道具の一つとする資本の破壊的な力にどう対抗・抵抗していくかが、常に抑圧された者の側に立つべき真の知識人の喫緊の課題だと、著者はいうわけだ。
 その提案のいちいちを、ここには書かないが、グローバル資本主義がもたらす人口の巨大な変動が、(世界の全ての国や地域の)保守主義者たちのアレルギー反応や、権力による「線引き」の策動にも関わらず、不可避的な現実であり、その現実を肯定することのうえでだけ、抵抗も解放も連帯も可能であるという力強いメッセージを、本書から受け取った気がした。
 序文でもベンヤミンを引いて言われているように、(支配者たちにとっての)歴史の危機的な一時期としての「ポスト」とは、そこに生じるわずかな断裂をきっかけとして、抑圧された者たちがその手に歴史を作り出すイニシアチブを奪い返す好機でもあるのだ。

これまで世界は否定され、制圧され、軽視されてきた。その多種多様な「抑圧された過去」が、いまや解放され、承認と理論化へ向けて緩やかに動き始めたのである。(p16)

難解な部分もあるが、とにかく読んで元気の出る本だと思いました。