『日本の近代化と民衆思想』

日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)

日本の近代化と民衆思想 (平凡社ライブラリー)

今年に入って平凡社ライブラリーから「名著復刊」として新しい刷が発売された本書は、もともと、歴史学者安丸良夫が、60年安保の国会議事堂を包囲した闘争に一学生として参加した体験を機縁として、60年代から70年代前半に書き継いだ論考を一冊にまとめたもの(74年出版)である。


「通俗道徳」の利用と日本近代の民衆宗教

本書の前半ではまず、近世から明治にかけての日本の民衆闘争を支えた思想が、近代化や国民精神の形成と表裏をなす「道徳主義」にあったことが強調される。
これは、民衆の道徳主義を、江戸時代からの封建的遺制として否定的にのみ捉える、従来のマルクス主義史学や丸山真男などへの異議を、民衆史という観点から打ち出したものだと考えられる。
このような著者の観点は、民衆というものの、両義的な力(体制を構成するものであると同時に、それへの抵抗の主体でもありうるという)について考えさせられるものだが、むしろこの章で印象深いのは、近代化の過程で人びとを支配したその「道徳主義」イデオロギーの抑圧的な効果についての記述だ。
そこには、「自己責任」論や「生活保護バッシング」など、今現在の日本社会のあり方にもつながるものがあるようなのである。

こうした意識形態においては、富や幸福をえた人間が道徳的に弁護されており、貧乏で不幸な人間は、富や幸福から疎外されるとともに、その事実によって道徳からも疎外されているのだ、と判定されている。こうして成功者たちは、道徳と経済の、そしてまたあらゆる人間的領域における優越者となり、敗者たちは、反対に、富や幸福において敗北するとともに道徳においても敗北してしまう。そして、成功しようとすれば通俗道徳のワナにかかって支配秩序を安定化させることになってしまう。(p16)

右のような過程が、くりかえし進行することによって、勤勉、倹約、孝行、忍従などが社会の通念として定着していった。こうした通俗道徳には、たくさんの人々の真摯な自己鍛錬の努力がこめられていたこと、こうした自己鍛錬によってある程度の経済的社会的地位を確保しうるということが、この通俗道徳に容易に反駁しえない正当性をあたえていた。道徳的な優者が経済的社会的優者でもある、という表象がつくられた。この表象が一つの虚偽意識であることはいうまでもないが、しかしいったんこうした表象が定着するとそれを有効に論駁することがむつかしくなってくる。批判者は、道徳的にも、社会的経済的にもともに疎外された人間として、たとえば頽廃や現世否定の姿勢をとらざるをえなくなってくる。道義的に敗北させるということが、イデオロギー闘争においてはもっとも有効なのだ。近代日本の支配者たちは、自分自身はしばしば、道徳など眼中にないマキャべりストであったが、右のような通俗道徳を巧妙に活用した。こうした通俗道徳の社会的な規制力は、きわめて甚大で強靭なものだったから、さまざまな社会的な難問をその論理のワクのなかへとらえることによって処理しようとするのが、多くの人々の自明の生き方となっていった。こうして、?自己責任?の論理が、広汎な人々の批判の目をとざしてしまった。(p83〜84)


「通俗道徳」の巧妙な内面化により、社会体制への人びとの広汎な批判の目を閉ざし、無力化しようとする「支配者たち」のやり方は、今もしっかりと継承されていると言えるだろう。


ところで、こうした「道徳主義」による限界(やがて体制に回収されていく因をなす)を持ちながらも、同時に明治の民衆運動が、貧しい一般民衆に歴史の主体としての意識を目覚めさせたという意義を、知識人層による「自由民権」運動との対比において、著者は強調するのである。
この対比には、やや二項対立に過ぎるような印象も受けるが、それでも興味深い視点だろう。
民衆自身が、いわば内なる「愚民意識」を克服して、自分たちの潜在的な力に気づき、歴史を作る主体となることの重要性は、明治の宗教的民衆運動の限界を、江戸期にまで遡って考察した第三章でも語られている。

このように考えてみると、身禄の思想は、社会組織としての封建制とすこしも矛盾しない。むしろ、封建秩序への自発的服従を説くてんで、支配階級にとって好都合なものであった。近世の富士講封建制度を批判したことはなく、全体としては封建支配に協力的だった。だがそれにもかかわらず、現実の社会を一つの一貫した思想的立場から問題とする運動が下から展開することは、支配階級にとって不気味なことであった。なぜ不気味かといえば、社会体制をつらぬくべき原理を民衆自身が下から問題として取りあげているからである。(中略)身分制度は否定されないが、支配階級の観念上の特権は失われ、民衆は自分で考え、自己の内的権威にもとづいて行動しはじめたのである。(p168〜169)


これは、江戸期の民衆宗教(「富士講」)が持った意義についての記述だが、このような社会批判・変革につながりうるポジティブな要素は、明治初期に勃興したいくつかの民衆宗教(丸山教天理教など)にも当初は受け継がれていたと考えられるが、近代化の進行と共にこれらの宗教は国家の体制に回収されてそれを支える装置へと変質し、対抗的な民衆運動の拠り所としての意義を失っていく。
この過程はまた、「通俗道徳」を利用することで、国家が村落などの民衆の共同体を生活レベルから近代化の運動へと組み込んでいく過程とも並行していたのである。

「仁政」イデオロギーと「解放幻想」の不在

さて、本書の後半では、江戸時代の農民たちによる一揆の実像、そして明治期に入ってからのその推移が、サルトルやファノンの思想なども援用しながら、膨大な資料を元にして描かれ分析される。
学際的であると共に、優れた社会思想の論考でもあり、運動論のようなものとしても読める。何より、読んでてすごく面白い。圧巻という他はない内容である。


まず第四章では、自由民権運動のような近代的な政治理念にもとづく運動と、百姓一揆や民衆宗教に代表される土着的ともいえる運動との乖離、断絶ということが前提として言われている。先にも書いたように、丸山真男などを批判して、後者の限界と可能性を見極めていこうというのが、当時の著者のスタンスだろう。
幕藩体制下では、権力支配の論理が「理」に優先され、徹底的な抑圧の力が民衆の日常を覆っていた。そのなかで、民衆の不満や鬱屈は、民衆自身にも自覚されないまでに深く内面化され、マグマのように溜まっていたと、著者は考える。
このような抑圧された日常から、あるきっかけ(行動の軸になる指導者の出現=犠牲的な役割の引き受け、など)によって、噴出する行動が「一揆」だといえるが、ここで重要な指摘は、一揆においては悪代官や役人、悪徳商人のような「絶対悪」が措定され、民衆が共同体的・秩序道徳(それは幕藩体制を支えるものでもある)的な「正義」の正当性を掲げてそれに敵対した後、より上位の権力が民衆の意向を汲んでこの「絶対悪」を除去することによって、民衆が支配システムに安心して復帰するという、いわば「水戸黄門」みたいなシステムが出来上がっていた、ということである。

(前略)百姓一揆は、幕藩制的収奪が百姓「成立」の大枠をこえないようにフィードバックさせて、その結果として、大多数の民衆を幕藩制的「仁政」の世界のなかにつなぎとめるという機能をもたざるをえなかった。(p290)


一揆を起こす民衆は、正義の代行者として道義的な正統性を確信することができたが、それは一揆の論理が、あくまで『仁政』という支配イデオロギーの枠内にあるものだったからであった。
一揆という行動は、「仁政」という支配イデオロギーの外に立って(対抗して)なされるものではなかったのである。


このように江戸期の農民闘争が、時に示すその爆発的なエネルギーにも関わらず、ヨーロッパや朝鮮などアジア諸国におけるそれとは異なり、権力に対する根本的で持続的な抵抗となりえなかった原因を、著者さまざまに探ろうとする。
まずこの章では、『解放幻想』の不在という宗教的な理由が考慮される。近世初頭におけるキリシタン一向宗への徹底的な弾圧が、幕藩体制下の日常生活とは異なる「もうひとつの世界」への想像力や信念を、持ちえなくさせたという観点である。
これについては、「千年王国」に代表されるような「解放幻想」が、現実の世界に何をもたらしてきたか(例えば「収容所」)を考えれば、こうした「幻想」を安易に信じないことは日本の民衆・文化のむしろ長所と言えなくもない。
しかし、江戸時代の一揆の限界と3・11後の現状を合わせて顧みるとき、日本の場合このことはむしろ、現在ある世界だけが唯一可能な世界だという別個の(制度的な)「幻想」のなかに人びとが閉じこめられていることを意味しているのを、誰も否定できないのではないか?


江戸期の一揆の非闘争性と「根拠地」の不在

次に著者が注目するのは(ここから第五章の内容に入るが)、江戸時代の日本の農民闘争に特徴的な体制内的、また非武装的な性格であり、そして抵抗の『根拠地』の不在という特徴である。
この第五章は、本書の白眉といえる豊かな内容を持つ論考だが、そこではまず江戸時代の一揆が基本的に、幕藩体制を支える『公的価値と正統性』が自分たちの側にあることを主張するものであったこと、つまり支配体制自体に意義を唱えるものではなく、その支配的な価値を真に体現しているのはむしろ我々の側なのだと主張する、いわば体制内的な行動であったという事実が強調される。
一揆指導者たちが、弾圧してくる役人たちを前に示す堂々たる態度や、共同体内部におけるその求心力の背景には、こうした理由があったのである。
大雑把にいえば、こうした性格のゆえに、一揆の記憶は、秩序が回復された日常においては「秩序の維持のための、やむをえざる非常手段的・一時的な暴力の行使」という毒を抜かれた『義民譚』のようなものとしてしか伝わらず、『大衆的暴動の伝統として伝承され内面化される』ことは決してなかった。


中国の農民闘争との比較を通して、江戸時代の百姓一揆の非闘争的性格の原因を思考した箇所は、戦後の日本の社会運動史に結び付けて考えるとき、とりわけ示唆的な部分だろう。
江戸期の百姓一揆の著しい特徴は、その非武装性と共に、一時的な闘争が終って帰還する「村」の日常が、どこまでも幕藩制体制の一部分をなすものであり、持続的な抵抗の『根拠地』ではなかったというところにある。

(前略)このような解体の仕方は、一揆の終焉にさいして一般的にみられたことで、このようなばあいに、人々は、個人としてもなんらかの組織としてもふみとどまることができなかったし、そこへ逃げこんでたたかいを再建するための根拠地をもってもいなかった。
 ここで、百姓一揆のばあい、人々が逃げかえるのは自分の村であって、要害にかこまれた根拠地や要塞でなかったこと、その村は、日常的には幕藩制支配の体系の一環であったことに留意する必要がある。(p360)

(前略)だが、幕藩制下の百姓一揆には、右のような(注:中国の農村におけるような)諸条件はまったく欠如していた。一揆は、幕藩制支配のもとにある村で準備され、そのような村を単位として動員された。一揆が敗北すると、人々は自分の村へ逃げかえるのであるが、村へ帰った農民は、もはや完全に一揆の集団を解体した幕藩制的共同体の住民である。幕藩制的村は、幕藩制支配の下部機構でもあるのだから、このような村の住民としては、幕藩権力は、無力な受動性をもって受容されるしかないものであったろう。(p364)

戦後日本においても、一時的な抵抗の高揚が終った後、とりわけ都市部の生活者たちは、資本主義社会という支配秩序的な「日常」へと従属的に復帰していく他はなかった。
「根拠地」としての、われわれ自身の日常を作り上げられていないという意味では、われわれは今も、近世的な被支配の状況を脱していないのではないだろうか?

「人民恐怖」という始源

このあと、この第5章では、「ええじゃないか」に代表される幕末期の民衆の「踊り」の熱狂の、土着的・伝統的でもあるエネルギーと、それがついに支配秩序を脅かすような真の抵抗にはなりえなかったという限界の指摘、そして「維新」前後における一揆の特異性と、そこにはらまれていた「可能意識」の分析など、非常に興味深い論が展開されるのだが、ここでは最後に、慶応二年の武州一揆から明治初・二年の世直し一揆にかけての時期についての記述だけを紹介して、稿を終えることにしたい。
いわゆる「維新」勢力の登場は、既存の幕藩体制への批判意識の芽生えとともに、ナショナルな(時に排外的でもある)志向を深めつつあった当時の民衆たちから、はじめは大きな期待をもって迎えられた。

そのさい、民衆の解放幻想が、はじめ、維新政権への幻想的期待と結びつきやすかったことは、ほとんど必然的なことであったと思われる。(中略)
 だが、いうまでもなく、現実の維新政府は、年貢半減令をたちまち撤回し、世直し一揆を抑えて豪農商層の利害につく絶対主義権力であった。幕藩制のもとでは、地方役人との複雑な交渉のなかで実現されたかもしれない地域の実情に応じた貢租の減免も、維新政権のもとでは不可能なばあいが少なくなかった。(p425〜426)

こうして、明治元・二年の世直し一揆において、小生産者農民としての解放の可能性についての自意識をもちはじめたかにみえた農民闘争は、新政反対一揆と地租改正反対一揆においては、維新政権との敵対性をより明確に意識するようになっていった。原蓄過程に直面した農民の没落の不安を背景として、闘争は大規模になりはげしく武力的になっていった。そして、農民闘争のこのような動向こそ、版籍奉還廃藩置県をへて、明治絶対主義国家確立への道程を急がせるもっとも基本的な動因であったと考えられる。(p441)

このように、幕藩体制下の日常の「幻想」が、黒船や「維新」などの衝撃によって瓦解していくなかで、さらにその維新勢力にも絶望したあげくに、人びとは近世以後では初めて、支配権力との明確に敵対的な「一揆」を遂行するにいたる。
しかしそれももちろん、非武装に近い形態のものであった。
この一揆を鎮圧できない既成の領主権力に腹を立てた豪農・豪商たちは、強力な自衛軍を結成して一揆勢に残虐な弾圧を加えるとともに、やがて強権による徹底的な弾圧を新政権に求めるに至る。

「人民恐怖」という状態がうまれ、民衆の自由な可能意識の醗酵は、暴力装置の再構築によって、無力な日常性へと送りかえされたのである。(中略)明治十年までの百姓一揆に参加した一般民衆については、むきだしの暴力による抑圧こそが現実のものだった。(p441〜442)

著者は、この「むきだしの暴力」による挫折の経験こそ、本稿の最初に述べた(「自己責任」論にもつながる)「通俗道徳」型イデオロギーの浸透と並んで、明治期の日本の民衆の「諦め」や、権力への敵対的抵抗を『非合理で愚昧なもの』とみなすような心性の形成をもたらしたものだという視点を提示している。
こうして「大日本帝国」は確立されていった。
これが決して過去の問題ではないことを、今や誰も否定できないだろう。