『魂の労働』・年金制度と社会

渋谷望著『魂の労働』(青土社)を毎晩少しずつ読んでいるのだが、なるほどすごく多くのことを考えさせられる内容だ。それについてどんなふうに書いたものかと考えてるのだが、ちょうど先日書いた年金制度の問題に関して触れている箇所があったので、その部分を紹介しながら、ぼく自身の思うところもあわせて書いてみたい。


『魂の労働』のなかの「4 ポストモダンの宿命論」と題された章で、著者は、「政治の終焉」を唱えるポストモダン的な言説が、今日の社会に生きる人々に好んで受容される理由はなにかと、問いを立てる。
考えてみると、ポストモダンと呼ばれる思想の特徴である「政治の終焉」という物言い、別の言葉で言えば「ミクロ政治学」の主張は、その思想が世に出始めた6、70年代においては、反システム運動ないし左翼運動一般が持つマクロ政治的な性格、例をあげれば少数者や社会的弱者の政治的・法的な「権利獲得」を絶対的な主題とする運動のあり方に対する異議として、非常にポジティブな意味を持っていたと思う。
それは、現実に運動団体や左翼政党が、権利獲得の闘争に没入するあまり硬直化し、社会の支配層と同質の権力に変質してしまってシステムの一部と化していったという現実の状況とも関係していただろう。「マクロ政治学からミクロ政治学へ」とも言い換えられる「政治の終焉」の主張は、システムからの生の解放の運動を、より徹底させるものとして提案されたのだった。
だが、80年代末の冷戦終了以後、事情は大幅に変わった。冷戦が終わったあとの世界においては、「政治の終焉」とは、すなわちグローバル化新自由主義が支配する世界の現状を是認する、現状肯定的な保守的言説以外のものではないように思える。
しかし著者は、今日の社会においてこうしたポストモダン言説(政治の終焉)が受け入れられるのは、それだけの社会的・身体的リアリティがあってのことであり、それを分析することが重要なはずだと語り出すのである。

「宿命論」と年金制度の危機

この章で著者が示している現代の社会の状況の見取り図は、次のようなものだ。
社会主義国家の崩壊に続く、福祉国家というシステムの瓦解は、人生のリスクへの対処を集団によるもの(つまり、社会保障のような社会的システム)から、個人の責任へと転化するものであった。それは、ますます過酷になる労働や社会の状況のなかで、多くの無力な個人にとっては、対応できない巨大なリスクに直面して心に「宿命論」、つまり人生の構築についての無力さの感情を生じさせることになったと、分析している。

長期的な見通しが不可能となるなかで、自分で長期的な見通しを立てよ。労働市場が流動化し、非正規不安定雇用層が増大するなかで、社会保障の自己責任化を貫徹せよ(たとえば 401k)。(中略)若者たちはこの分裂したメッセージに対処するために、宿命論を招き入れざるをえない。(中略)われわれの経験では、自己責任言説は、よりテンションの低い宿命論により親和的である。(108ページ)

こうした宿命論が、未来の社会を人為的に変えようとする試み、つまり「政治」への無関心を生み出し、「脱政治化」の思想としてのポストモダン言説の受容の素地を作るとされるわけだが、その一方で、現代日本公的年金制度の危機も、こうした文脈から生じてくるものとして、著者には考えられているのである。

いうまでもなく福祉国家の核としての公的年金制度は、ライフコースにおける高齢にともなうリスクを社会的、集合的にシェアする装置として創出された。いわば個人的な宿命を社会的リスクに変換し、管理する装置である。しかし、現在、年金制度はこうした機能を果たすという点で急速にその信頼を失いつつある。年金制度は積み立て方式として解釈する場合、自己の将来を現在においてある程度の蓋然性をもって予測することが不可欠である。年金受給年齢に達するまで年金を支払う能力を維持すると想像できないとき――とりわけ不安定雇用の状態にあるとき――、さらには年金受給開始まで自分が生き延びることをそもそもイメージすることさえできない場合、誰が年金を積み立てることができようか。しかも、年金受給開始年齢は現在、段階的に高くなりつつある。自己の運命はもはや手の届かない自己の外部にあり、自力ではどうすることもできないものとして立ちはだかっている。(109ページ)

年金制度考・拠出制

ここで、いったん『魂の労働』から離れ、日本の年金制度について詳しく見ておきたい。
上の文章のなかで『年金制度は積み立て方式として解釈する場合』と慎重に条件がつけられているとおり、渋谷のこの見解は年金の「拠出制」、つまり掛け金を積み立てたもののみが受給の資格(権利)を持つという制度を、自明なものとして受け入れた場合の話である。
もちろん、日本の国民年金制度は、基本的には積み立て方式による拠出制をとり、これを無拠出制年金により補うという形をとってきたわけだ。
最近、国民年金制度導入にあたっての考え方を知ることができる公的な文章をネット上で見つけたので、それを参照しながら、この制度の思想的な背景について若干考えて見たい。
http://www8.cao.go.jp/hoshou/whitepaper/council/1958nenkin/2.html

これを読む限り、拠出制採用の理由付けは、特に高齢のような予測可能なリスクに対しては、社会保障制度に関して個人も一定の責任は負うべきであるということ、そして一般財源である税とは異なり、国民年金においては『それをみずからの貯蓄のための拠出として受けとるならば、その負担に対する意欲もおのずから異なるはずである。』というものであった。
この文章を注意深く読むと分かるように、社会保障制度は元来はリスクへの対処・管理を社会全体が組織的に行うという趣旨のものだが、老齢年金などについては例外的に自己自身の責任、つまり掛け金の積み立てによる受給資格の獲得という考え方が導入されているのである。その大きな理由は、拠出を自己の老後のための貯蓄だと『受けとるならば』、人々の『負担に対する意欲』も高くなるであろうことを狙ってのものだと、明言されている。
国民年金の拠出制というあり方が、実は現在言われている「自己責任」という考え方に通じるものを含んでいるということと同時に、そうした原理に基づく制度の導入が社会保障制度本来の趣旨からは外れているという自覚が、この制度を提案した人たちの中にあったことが、この文章から読み取れると思う。
ここをもう少し突っ込んで言うと、社会保障とは元来豊かで幸運な人たちが、社会のなかの不運で貧しい他人を経済的に扶助するという仕組みのはずだが、公的な社会保障の仕組みに対して、人々に金を支払わせる思想的なバックボーンが日本社会には無かったので、あたかも自己の老後のための貯蓄であるかのような「拠出制」という制度を導入することで、人々に金を払わせるようにした、ということであろう。
こうした思想的なバックボーンを持たないことは、必ずしも日本だけの特徴ではなく、近代国家一般の性質でもあるらしいことは、拠出制という制度の存在が明かしているだろう。だが、日本の拠出制には、おそらくやや特殊な性格があるのではないかと思う。それについては、後述する。


ところで一方、老齢福祉年金などの無拠出制年金は、基本的には上記の拠出制の限界を補うものとして設定された。『その理論的根拠は、一定年令をこえた老令者は、社会がある程度扶養する義務があるというにある。』。
これは、社会保障制度本来の考え方が、理論的根拠として呼び出されたということになろう。年金制度は元来こうしたものであるはずだったのが、現実的な理由から「拠出制」年金を基本的な形態とせざるをえなかった。拠出制によって生じる不具合を、この本来の社会保障の考えにもとづく別の年金によって補おうとするものだと、解釈できよう。
一方、年金制度とは異なるものとして、累税課税を財源とする生活保護があるわけだが、これも社会保障制度本来の考え方によく合致したものだと思える。
こう考えると、無拠出制年金も生活保護も、拠出制年金がもつ、社会保障制度としては根本的な欠点、すなわち「掛け金を支払えないほど困窮していたり不利な社会的立場にある人を救済できない」ということを補うものとして存在している制度だといえる。


こうした観点から見ると、今日の日本において国民年金制度が危機に瀕しているという事実が意味するところは、生活保護制度などに暗示されている「豊かで幸運な人たちが、社会のなかの不運で貧しい他人を経済的に扶助する」という社会保障制度の根本的なあり方にわれわれが立ち戻って社会を再構築するか、それとも社会保障思想そのものを基本的には放棄して401kに示されているような「自己責任」にもとづく民間拠出制度への完全に移行するかの二者択一であるようにも思えてくる。
だがそう結論付けるまえに、もう少し考えたいことがある。

「他人の扶助」と「富の再分配」

渋谷望は、今日のような社会では、自分の老後のための積み立てとしての年金制度への参加を、若い人たちに要求する方が無理である、と書く。
実際、自分の老後につながらないと思うなかで、年金を支払い続けることは、低賃金化がどんどん進んでいる現状においては、無理な要求というものだろう。しかし、問題の根本は、「自分の老後につながるから」という支払い勧誘の言葉が嘘(虚構)であることを、今では誰もが知っているということなのだ。
今日なお、こうした公的な社会保障制度を維持しようとするなら、「基本的には他人のため、社会のため」の支払いであるという考えに、みなが立つ以外ないだろう。確かに、所得格差の増大が進むなかで、この考えは容易に受け入れられがたいものだろう。だが、それ以外に、今後の社会における「富の再分配」の道はないのではないだろうか。


「他人のため、社会のため」という思想を、今からこの社会に、特に日本の社会に根付かせることは可能か?
社会主義国家の場合、制度(システム)によって、最初から富の公平な分配が可能となり、他者の扶助もまた可能だと考えたわけだ。それは、自由市場の否定により、富の不公平を最初から無くすというやり方だった。したがってここでは「富の再分配」という課題は、原理上はありえなかったのではないかと思う。しかし、この制度は基本的に破綻した。だが、「他者の扶助」というおそらく宗教から受け継がれた思想が、これらの社会でどの程度生きていたのかは図りがたい。
一方、日本やヨーロッパなどのいわゆる福祉国家は、資本主義経済と国民国家の枠のなかで「富の再分配」を実現するために、拠出制年金のような、やや個人主義的・自由市場主義な制度を導入して人々の支払い(つまり参加)への「意欲」を確保しようと努めてきたと考えられよう。
だがこの制度は、それが本来持つべき「他者の扶助」という要素を見えにくくしてしまった。今日の年金制度の危機が示しているのは、その事実であると思う。


要するに、「他者の扶助」を根本的な思想とするオルタナティブな社会を作ることが、一定の市場の自由を前提とする今日の社会において「富の再分配」の実現のためには必要だと考えるわけだが、それはどうすれば可能だろうか?
一般的に言って、宗教や大家族のような強力な精神的バックボーンがなければ、他者の扶助という公的な理念の実現のために自分の財産を提供し続けることは、事実上できないと考えるのが普通だろう。先述したように、近代国家においては、そのような共同性の力は弱く、そのために社会保障をうまく機能させるための方策として「拠出制」のような仕組みが導入されてきたわけだ。
たとえば日本の場合、「拠出制」は、貯蓄というよりも、民間の「講」に近いイメージのものとして導入されたのではないかと思う。つまり、その土地の、土俗的・宗教的な共同性のイメージに力を借りることで、近代的な社会制度を維持しようという試みは、たぶんどの国でも行われてきたのではないかと思うのだ。
そうした何らかの共同性が、それが古くから生き残ってきたものか、新しく生み出されるものかはともかく、近代国家(福祉国家)の制度の瓦解をうけて、それに代わる社会扶助の枠組みとして、今後表面に出てくることはありうると思う。
そこに問題がないわけではないが。

共同体の回帰、オルタナティブな?

ここで、『魂の労働』「4 ポストモダンの宿命論」に戻ろう。
著者は、グローバル化新自由主義の拡大によって生じた「第四世界」 (日本や欧米の都市部の低所得地区を含む呼び名) と呼ばれる排除の空間において、「共同体の回帰」という事象が広く起こっていることに注意を促す。
それは、上記の若者たちにおける「宿命論の回帰」から帰結する事柄である。ここで著者が記述するのは、社会的な生存に対して構築的(モダン)であることを、また同時に政治的であることを断念した若者たちが築こうとする「ミニマムな生の秩序の維持の原理」による倫理的な共同性の、両義的なあり方だといえよう。

(前略)「アンダークラス」の文化に見られるリフレキシヴな自己責任メンタリティの放棄は、オルタナティブな共同体的な生存の技法の生成を通じて補われるかもしれない。(116ページ)

福祉国家が瓦解し、市場経済が支配し続ける現代の社会において、若者たちの生存に共同体は回帰し、その共同体への帰属の倫理が、したがって共同体に対する「義務」の感情が、この人々の生存のもっとも深い部分を支配することになる可能性がある。
「他者の扶助」という社会的な理念が、この特異な脱政治的な回路を通って復活してくる可能性は、たしかにあると、ぼくも思う。
だがそれは、新自由主義に対する「抵抗」の回路であると同時に、その権力に組み込まれる回路でもありうることを、著者は指摘するのである。

ここにわれわれは宿命論の両義性を指摘することができる。(中略)宿命論はネオリベラリズムの額面上の教義――リフレキシヴな主体形成――に対する抵抗であると同時に、統治形態としてのネオリベラリズムが、それを通じて落伍者を統治する、そうした機能を結果として併せもっているといえる。(同上)

ここで語られている事柄の全貌は、いまのぼくの理解を越えているのだが、脱政治的な共同体の回帰が持つ社会的な可能性と危険性についての示唆は、たいへん興味深いものであると思った。