『一九八四年』

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

どうしても立ち直ることのできない出来事、自分のやった行動というものがある。何かが胸の内で葬られる、燃え尽き、何も感じなくなるのだ。(p452)


この小説に描かれている社会を、監視・密告・洗脳・拷問といった権力の行為によって維持されるような体制であるとしか見なさないなら、この作品はすでに古びているということになるだろう。
だが実際はそうではなく、ここに描かれているのは、そうしたさまざまな手法を通して、最終的には人を己のエゴイズムに直面させ、その自覚のなかに閉じ込めることによって秩序に服従させるという、権力のあり方である。
これはまったく、現代的なテーマだと思う。
最終部で主人公ウィンストンは、自分が重大な「裏切り」の行為を行ったこと、「自分のことしか考えてない」、もっとも大切な誰かを「自分の身代わりにしようとした」自分の存在に直面して、権力に屈服していくにいたる。


読み終わって一晩たってから気がついたのだが、この過酷な出来事は、ウィンストンの幼少の頃の体験、母と妹を自分のエゴイズムの犠牲にして虐げたこと、またそのことの償いもしないままに「蒸発」によって生き別れになったという体験のもたらした心の傷を、反復し確認するように、彼に訪れている。
とすると、他人(肉親を含む)との感情的な絆を断ち切られて、自分のエゴイズムの露呈に直面し、そこに閉じ込められるという事態は、子どもの頃から彼の人生を支配していたことになる。
それゆえ、彼は当初から、権力への服従による一体化の密かな願望にとりつかれていた、と考えることも出来るだろう。
母と妹に対して抱いている、過剰なまでの罪責感は、この「閉じ込められている」ということの、ひとつのあり方だと思える。恐らくその裏面に、不在であった父の代理者としてのオブライエンへの、主人公の転移的な感情がある。
オブライエンが、主人公に「ここに来ることが、ずっと前から君には分かっていたはずだ」という風に言うのは、この意味だろう。


要するにこの小説は一面では、いわゆるエディプス的な物語になっている。
そのことは、この小説には主人公やその恋人のような「市民」(党員)は登場するが、プロールと呼ばれる二級市民的な大衆は、はっきりした人格としてはほとんど描かれることがない、という事実と関わってるのだろう。
一言でいうと、これはどこまでも「市民」の小説なのだ。オーウェル自身は、きっとそのことをよく自覚していただろう。


その意味で、スペインの市民戦争(内戦)を、オーウェルとはまったく違う立場で経験したはずのジュネの書いていることと、この小説の思想とを比べてみるのは、面白いように思う(とりわけ、母との関係)。
ジュネにとって、「裏切り」という行為は抗し難い魅惑の対象だった。


ところで、この新訳版に付されたトマス・ピンチョンによる解説を読むと、面白いことに、この小説が書かれた当初は、第二部に引用されている架空の書物『寡頭制集産主義の理論と実践』の文章が、多くの読み手から「不要なもの」のように見なされていたらしいことがうかがえる。
今読むと、まさにこの部分こそが、この小説の最大の魅力にも思えるのだが。
これは重要な点で、たしかにやがて、この書物が反体制組織である「反ブラザー同盟」の理論書ではなく、むしろ体制側の作り出したものであることが明らかになるのだから、体制側と反体制側との同質性、それどころか実際に同一であるという事実にだけ着目するなら、この架空の書物で展開されている社会分析・批判は、まったくの絵空事という解釈も可能になろう。
おそらく、そういうことを理由(口実)として、当時(及び冷戦期)の読者は、この部分に集約されるこの小説の「反共」という要素には収まらない不気味な批判力を否認しようとしたのだろう。
その批判が、どれほど深く現実をえぐるものであったかは、現在においてこそ明瞭になっていると言える。


それから、このピンチョンの解説は、たいへん優れたものだとは思うが、どうも的を外しているような感じの箇所もある。
たとえば、この小説にあらわれたオーウェルの人種主義に対する見通しの甘さを批判する部分である。
オーウェルのこうした部分については、多くの議論があるようで、またそれに限らず彼の思想にはいくつかひっかかる部分があるのは事実だが、ただ「オセアニア」の社会においてどの人種に属する人であっても支配階級に入ることが出来る、と設定されているのは、むしろオーウェルの現実認識の厳しさ、鋭さを示しているのではないか。
上記の『寡頭制集産主義の理論と実践』にも、このように書かれているのだから。

階層構造が常に同じ状態に保たれさえすれば、誰が権力を行使するかは問題ではないのだ。(p322)


つまり、オーウェルが言いたかったことのポイントは、権力の頂点(部)に立っているのがどの人種に属する人かということなど、問題にしないほどに、この権力の秩序は強大だ、ということだと思う。
実際、アメリカの大統領が黒人であるからといって、その国の政府が行使する権力が、誰にとっても(とりわけ黒人たちにとっても)、よりよいものになると言えるであろうか?
もちろん、そんな保証はどこにもないのである。