年金制度再考の基本

最近、いわゆる無年金訴訟に関して、二つの判決が相次いだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050518-00000020-maip-soci

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050525-00000120-mai-soci

前者は、制度上の不備に原因があると考えられる国民年金未加入を理由に障害基礎年金の支給を拒否されたことが問題とされた裁判。
また後者は、82年の「難民条約」批准まで国民年金制度が外国籍者を排除していたことが原因となって、無年金状態に置かれている現状を在日コリアンの女性たちが訴えていた裁判である。
いずれも原告側の訴えは棄却された。
この二つの訴訟は、もちろん異なる要素を持つ。
後者は、ひとつには日本の植民地支配と戦後の在日朝鮮人に対する政策をどう考えるかという問題、もうひとつには「難民条約」や国際人権規約に示された社会保障の「内外人平等」という理念と、国民年金制度という国内の制度との関係をどう理解するかという問題が関係していると思われる。今回の判決は、こうしたことについて、国側の主張に近い見解を示したものといえるだろう。
もちろん、ぼくはこの判断に納得できないものを感じる。


だが、それはそれとして、二つの訴訟に共通している要素もある。それは、国民年金の基本である「拠出金制度」、つまり掛け金を払った者だけが受給資格を得るというあり方が、こうした問題の生じるもとになっているということだ。


社会保障のこうしたあり方は、決して自明のものではない。先日来たびたび紹介してきたロナルド・ドーア著、石塚雅彦訳『働くということ』(中公新書)に、次の一節がある。

同時に、福祉国家社会保険モデルは、だれもが基本的権利においては平等な市民社会の中で、弱者になることのリスクを分かち合うシステムでした。これを実現する方法は、若く働く能力がある人や、幸運な人から掛け金を集め、働くには年をとりすぎている人や、不運な人にそれを給付として再分配するというものでした。(p130)


だが現実には、どこの国においても、『給付をもらう権利は、掛け金の納入によらなければ公平ではないという考えがかなり普遍的だった』、とドーアはいう。
そのため、掛け金が納入できないほど困窮していたり立場の弱い人たちが給付を受けられないという、根本的な不都合を、この制度は抱えることになった。この不都合を補うための、市民間の別種の再分配による社会扶助の制度が、累進課税とセットになった生活保護である。
だが、生活保護は、受給者に「恥」の感覚を抱かせる場合が多いため、なかなか有効に機能しない現実があるとされる。
この経緯を読んでくると、元々の「社会保険モデル」の思想と、掛け金を払ったものだけが給付をもらう権利があるとする「普遍的」な社会通念とが、どうも合っていないことに気がつく。本来は、豊かな者や若くて収入の得られるものが掛け金を支払い、社会のなかの不運な人や高齢者を養うということが、「社会保険モデル」、つまり社会保障のあるべき姿だったのではないか。
今でも、イスラムの社会には、こうした慣習が生きていると聞く。
だが、近代以後の「福祉国家」のシステムにおいては、「掛け金を支払う者」と「給付をもらう者」とが同一であるかのような制度が一般的となった。日本の国民年金制度も、もちろんこうした「常識」にならっているのである。
だから、多くの若者たちは「自分が将来年金をもらえる見込みがないから」という理由で掛け金を納入しなくなり、それに対して社会保険庁は「今納入しなければ、将来受給できませんよ」ということを脅し文句にして納入を呼びかけるのである。


しかし本来は、年金制度は生活保護と同様に、社会のなかの豊かなものや収入の得られるものが、そうでない他人を支えることを基本的な目的とした制度だったのではないかと思う。
近代以後の各国の現実の制度のなかで、それはたまたま「拠出金」制という形態をとってきた。「拠出金」制という、「自分が自分を助ける」ことが社会保障の根本思想になっているために、生活保護は「恥」の意識を受給者たちに抱かせるのだ、とも考えられよう。
福祉国家」の社会保障の根本に、国民国家の勤労道徳および資本制経済と結びついた、こうした自助努力の思想があったとすると、そこから現今の「新自由主義」のイデオロギーへのバトンタッチは、そう驚くようなものではないように思える。
産業構造の変化や、少子化などさまざまな原因によると思われる「年金制度の危機」は、この「自分が自分を助ける」ことを自明とする社会保障の基本的なあり方を再考する機会としてとらえるべきではないだろうか。


それは、「富の再分配」の新しい枠組みをどう作るかということと、社会システムのなかでの自己と他人の生という問題、また賃労働と収入といった問題に、やはり関わるだろう。とても大きくて複雑な問題だが、これから色々と考えていきたい。