『働くということ』その5

ロナルド・ドーア著『働くということ』(中公新書)を読みながら考える、今日は第4章について。この本は5章までで終わりです。
4章の最初にこうある。

以上見てきたように、高度な技術を伴う市場経済システムにおいては、所得の不平等が拡大していく傾向は不可避的なものであり、多かれ少なかれ全世界的な現象となっている。(120ページ)

コンセンサスの変化

これに関連して、「もっとも豊かな工業社会」においては、この不平等の拡大を容認する心理的・思想的な傾向が出てきているという事実を、著者は強調する。これは、「何が公正か」ということについての社会全体のコンセンサスが、19世紀から続いてきて20世紀の後半に頂点に達した思想によるものから、それとは別のものに決定的に変わりつつあることを示している、と著者は見る。その19-20世紀的な思想を法制度の形で具現化したものが、福祉国家における社会保険と労働者保護立法だ、ということだ。
つまり、近代的な国民国家システムの根幹がこれだ、ということだろうね。この制度について、著者はアメリカの哲学者ジョン・ロールズによる理論化の功績を高く評価している。ロールズというのは、前から関心のある人だが、ぼくはまだ著作を読んだことがない。社会制度への影響力という意味では、20世紀の哲学者の中で最大の人だったんじゃないかな。
その思想について、こうある。

強者と弱者の間における公正さは、強者として生まれるか弱者として生まれるかを知ることのできない、まだ生まれていない者によって選ばれるであろうような制度を設計すれば、達成できると主張しました。(130ページ)


なるほど、こういうことを言ったのか。非常に考え抜かれている感じの思想である。


だが、こうした理論によって裏打ちされ、20世紀の特に後半には世界中で成立するようになった社会保険や労働者保護立法という福祉国家的な制度は、いくつかの点で限界に直面するようになった。社会保険について書かれていることが興味深い。

福祉国家社会保険モデルは、だれもが基本的権利においては平等な市民社会の中で、弱者になることのリスクを分かち合うシステムでした。(130ページ)


ところが、一般的な共通感覚のようなものとしては、「給付をもらう権利は掛け金の納入によるのでなければ不公平だ」という考えが支配的であった。

したがって、社会保険は弱者になることのリスクには対応できたにしても、はじめから弱者で、掛け金納付歴を築きあげることができないというリスクには対応できませんでした。(同上)


なるほど。
なんらかの事情で掛け金が払えない人というのは絶対いるわけで、その人たちが一番救済されなくてはいけないはずなんだけど、掛け金を払ったものだけが給付を受けるべきだという考えが根底にあるのでは、この人たちは救えない。「権利においてはみんな平等な社会なんだから、全員掛け金は払えるはずだ」ということが前提になってるからだ。でも、そういう社会が現実には成立しにくいから社会福祉制度を作ろうということだったと思うんだけどな。妙な話だ。

このことから、平等な権利と平等な尊厳―ド・トクヴィルが「生活条件・身分の平等」と呼んだもの―を保持する幸運な市民と、不運な市民との間の保険制度による再分配は、他の種類の再分配によって補足されざるを得なくなりました。すなわち累進課税生活保護という社会扶助によってです。社会扶助は収入調査の上で給付するのが普通で、受給者に二級市民というレッテルを貼ることになり、恥の意味合いがどうしても付きまとう制度となりました。(131ページ)


こう説明されると分かりやすいなあ。累進課税生活保護とはセットになっていて、それが国民年金のような「国主催の頼母子講」的な社会保険制度の虚構性をフォローしている。
生活保護が「恥」の意識を受給者に持たせるのは、「勤労者=一級市民」という近代工業国家の価値観が個々人に内面化されてしまっているからだろう。
やっぱり社会保険のような公共の福祉の機構・思想と、国民国家の理念や制度が重なってしまっているところに、根本的な歪みがあるんだろうね。
まあこういうことで、どうも社会保険制度というのは原理的に無理があるんじゃないかと、考えられるようになった。


一方、労働者保護立法の方も、これまで紹介してきたような情勢・思想の変化に伴って、いまやその有効性と必要性に重大な疑問が呈されるようになっている。市場原理に適合しない不必要な法制だ、というわけだ。
社会保険制度や労働者保護立法を見直すべきだという意見の根底にあるのは、「強者の力を抑制し、弱者の寄る辺なさを保護する」のではなく、『むしろ、強者の力を解き放ってそれをフルに展開させてこそ、弱者のセーフティーネットをより充実できる』という思想ではないか、と著者は言う。
この新しい社会的なコンセンサス、それを著者は「市場個人主義」と呼ぶ。


ここで思い当たったんだけど、「強者の力を抑制し、弱者の寄る辺なさを保護する」というのは、国家などの強者の権力から法によって弱者の権利を守るという、西洋近代法の根本的な発想であり、立憲主義の基本でもある思想だよね。
「市場個人主義」の台頭によって、その理念への信頼が崩れてきているというのなら、立憲主義への支持が揺らぐのも当然のことだろう。とすると、立憲主義的な憲法観の退潮は、日本だけの現象ではないのか。
国家の側としては、立憲主義的な憲法観が崩れるのはかまわないが、それと共倒れに国民国家の統合まで崩れてしまっては困るから、「国民の義務」を強調する「国柄」的な憲法観を人々に植え付けて新たな統合の形態を目指している、ということなんだろう。


「市場個人主義」と呼ばれる社会的コンセンサスのことに戻ると、その特徴として著者はいくつかの事柄を列挙しているが、特に重要と思われるのは、次のようなことだ。
この思想は、個人が仕事を探そうとするインセンティブ(やる気)を低下させるような水準での社会扶助は行われるべきでないとする。つまり、「やや強制的ともいえる就業インセンティブを与える」ことが、あるべきセーフティーネットの形だ、というわけだ。
その理由の一つとして、「勤労倫理」があげられる。

職を持ち、社会に貢献することは、依然として一級市民であることの必須の条件と見なされており、またそう見なされるべきである。福祉への依存は人間的尊厳を低下させ、疎外感を生じさせ、社会秩序の崩壊を招きやすい。国民全員が労働の世界に参加する市民であることを確保することは、政府の義務である。(133ページ)


これは、社会システムによる保障に依存するよりも、自立して働け、ということだろうが、
それが労働を通しての全体性への統合ということと結びつく点が、ぼくには奇妙に感じられる。一見すると、今世紀前半の全体主義的な社会体制における勤労観の復活みたいにも思える。「蘇る勤労」かな?
また、この思想は官僚主義的な権力を否定し、市場原理に基づく社会秩序化を賛美する。
消費者主権は民主社会の基本思想であり、市場の評価は常に公正なのだ、というわけだ。

変化の理由

このような社会的コンセンサスが支配的になった理由は何か?
一口に言うと、それは「社会規範の変化」ということだと、著者は言う。強者の自己抑制こそ望ましいと考えられた時代から、強者がどこまでも貪欲に自分の利益の拡大を求めることが善であるというふうに、社会の規範が変わってしまった。
その変化の根底には何があるのか、著者はいくつもの事柄を挙げているのだが、ここでもぼくの関心を引いたものだけを書いておく。
まず、社会が豊かになり、あるいは平和になって、国民社会が集団として一体感を抱き、統合される契機が失われたということ。イギリスの社会福祉制度は、戦時中の強い国民的連帯感を礎にして確立された。
だが、そういうことよりも著者が重視するのは、「階級構造の変化」ということだ。どういうことか。戦後の貧しい階層出身で学歴もなかった日本の有力政治家たちを考えれば分かるように、かつては、貧しい階層にも優秀な人材がいた。ところが、

しかしますます学歴主義になった二〇世紀の後半には、教育機会が完全に均等でなくても、大いに拡大されるようになり、かつては労働組合のリーダーになったかもしれないような貧しい家庭出身の優秀な者が、今では学校を楽々と卒業し中産階級の一員として成功することができるようになりました。(145ページ)


これは、ずいぶん怖いことを言っている。要するに、貧しい階級には優秀な人材はいなくなってきたと言ってるわけだ。
とすると、どうなるか。
階級間のいわゆる「社会移動」が減少し、階級が世代を越えて固定してしまうのである。
この本では「社会移動」の要因として、経済的、文化的、遺伝的という三つのものがあげられている。「遺伝的」まで入れるのはどうかと思うが、要は環境が固定してしまって、上の階級にあがっていける優秀な人材が下の階級に出なくなるはずだ、ということだろう。
これはいまの日本では「不平等社会」と呼ばれているものだが、このことがもたらす帰結はなにか。それは、階層間の意識の隔たりによる、社会的連帯の意識の弱まりだと、著者は言い、警鐘を鳴らす。
ここで引用されるのが、小説家でもあったイギリスの大政治家ディズレーリが書いた、次のような19世紀はじめのイギリス社会の姿である。

「何の交わりも何の共感もなく、まるで別々の惑星の住人みたいにお互いの習慣、考え、感情について無関心な」(中略)二つの国の国民が共存しているような社会(148ページ)


「市場個人主義」のコンセンサスが支配的になった別の理由として、移民の増大による「文化的多様性」の強まりがあげられている。
つまり、右派ばかりでなく、左派の中から『充実した社会福祉の基盤となる社会的連帯を損なうほどの文化的多様性はやはり問題ではないか』という意見が出始めたのである。むしろ二世・三世に対する積極的な同化政策を推し進めなければ、社会に対する統合感が失われ、福祉制度は機能しなくなってしまうという声が、欧米では出るようになった。
これは少し分かりにくいが、「文化的多様性」の強まりによって、多くの国民が「自分たちの国」という意識を持てなくなり、年金や税金を払う気持ちが薄まる、ということだろうか。
それもどうなんだろう?そういう意識を基盤にしてしか公共の福祉が成り立たないということだが、そもそもこの「社会的連帯」の意識の中身に問題があるのではないか。
ぼくが思うに、これはもともと福祉制度が国民国家体制と分かちがたく重なっていることから生じるねじれなのだろうが、ただあれだけ人種的多様性の大きな社会では、たしかにこうした問題は深刻であろうと思う。ほとんど移民を受け入れない国の住人には、想像しがたいところが多い。


さらにもうひとつ述べられている理由は、高齢化である。
結局、払う側に対してもらう側がどんどん増える傾向にあり、年金制度のような維持しがたくなってきている。

リスクを国家から個人へ、国の確定給付制度から民間の確定拠出制度(401k制度)に移す動きは、実際、全世界的なものです。ここでも、個人主義的傾向が強化され、再分配メカニズムが弱体化するだけではなく、格差の拡大も招いています。(151ページ)


なるほど、「401k」って、そういうものだったのか。はじめて分かった。
でも、「リスクを国家から個人へ」という「自己責任」の論理は、世界的なトレンドなんだな。


まだ4章が終わってないんだけど、長くなったのでまた次回。
いつになったら終われるのか分からなくなってきた。