『働くということ』その6労働の新しい意味

ロナルド・ドーア著・石塚雅彦訳『働くということ』

について色々書いてきたが、よく考えると、映画でいう「ネタバレ」もいいところで、本書に興味を持ってこれから読もうとしている人にとっては、迷惑な話かもしれない。出版社の営業妨害になってもいけないので、今回でこのシリーズは終わりにします。最後の第5章については(全体についてももちろん)現物をお読みください。


今日は第4章の終わりの部分について。
実は、この部分が、本書の核心ではないかと思うので、丁寧に論じてみたい。
いままで書かなかったが、この本は「グローバル化と労働の新しい意味」という副題を持っている。この部分は、その「労働の新しい意味」について書かれている。その内容は、ぼくには驚くべきものだった。
重要な部分なので、はじめに著者の見解を紹介し、後からぼくの意見・感想を付け加える形で書こう。


はじめに、第4章で著者がここまで述べていたことを大雑把にまとめてみる。
①今日の社会は、不平等が拡大し続ける社会である。
②その理由は、近代から20世紀の後半にかけて支配的であった「強者の自己抑制」と弱者への同情という社会規範が崩れ、「市場個人主義」と呼ぶべき新しい社会的コンセンサスが支配的となったことにある。
③上記の近代的社会規範を制度化したものが、いわゆる福祉国家の制度であり、特に社会保険制度と労働者保護立法だった。今日、それらは行き詰まり、また否定されようとしている。
④こうした近代的な規範の瓦解の大きな理由は、社会が同質な国民の共同体であるという、社会的連帯の意識が、社会の諸変化のために薄れてきていることにある。


前回述べたものをはじめとしたいくつかの理由から、社会的連帯の意識が弱まり、「市場個人主義」のイデオロギー(コンセンサス)が支配的な社会規範となったのだ、というのが著者の分析である。
フランス革命は「自由・平等・兄弟的連帯」を三つの理念としたが、現代の新しい社会規範は、自由を他の二つの理念よりも際立って重視する。それは、近代を支配してきた思想からの転換を意味するものだ、というわけだ。
強者の力を抑制しないことが、結果的に「公正」で秩序があって安全な社会の実現をもたらすというわけで、その「公正さ」を保証するものが、いわば市場原理の無誤謬性である。
つまり、市場原理に対する信奉が、この無際限とも思える強者の欲望の自己肯定に社会規範としての基盤を提供しているわけだ。

賃労働から奉仕義務へ

ところで、これまで著者が分析してきたような、社会の階級分裂の深まり、社会保険制度の崩壊といった現実を踏まえて、欧米の団体は、いくつかの解決策を提示し始めているらしい。
ぼくを驚かせた、そのなかの一つは、次のようなものだ。

障害者年金を除き、所得・資産調査を要する福祉給付制度をすべて廃止し、暮らしていくのに十分な収入を基本的な市民の権利としてすべての人に給付することが賢明な代替策と見られるようになるだろう。たとえ、GDPの四〇%くらいの負担を覚悟しなければならないにしても、健全な市民社会を維持するにはそれしかない。この権利には社会に対する何かの奉仕作業をする義務が伴うことになるだろう。(158ページ)


この団体の見解としては、その義務の代表例として、ヨーロッパの国々に見られる民間組織での従事とセットになった兵役義務と並んで、陪審員サービスがあげられている。
日本でも、陪審員制が導入されるというニュースがあったが、あれはそういう意味だったのか。
著者は次のようにまとめる。

今もっとも賃金が低い仕事の多くは、地域社会奉仕として処理されるようになるでしょう。介護の仕事など、ニーズは明らかですが、ニーズを持っている人たちが貧しいために有効需要になっていないサービスがその一例です。(158ページ)


著者は、そうなれば行政的概念としての失業というものはなくなるだろう、と書く。
働く意欲がスポイルされることや、失業者の尊厳の問題も、クリアされうると著者は論じている。


このプラン(過激なほど左派的な考えであり、著者ドーアの思想とは異なる点が多いと思うが)が、どういう意味を持っているのか、ぼくなりに考えてみる。
本書を通じて語られてきたように、技術革新や経済のグローバル化などにより、先進工業国では特に低所得層に慢性的な労働力の余剰が生じることは避けがたいと考えられる。これは、失業ばかりでなく、低所得の階級に属する、高度な教育・知識を受けられなかった人たちが主に従事する、単純作業や事務労働の賃金のとめどのない低落を引き起こすだろう。
それは、直接的に社会保障の破綻につながるばかりでなく、人々の労働意欲の減退という世界的な現象の原因になる。なぜなら、賃金が生活保護と変わらない水準にまで下がってしまったとき、しかも仕事を通じて上の階級に上がっていける望みもないなら、あえて働く理由を、たぶん誰も見つけられないからだ。
若者が労働する理由と意欲を見つけられないことは、日本だけでなく、今日の先進工業国で共通に起こっている経済構造上の問題であり、これは制度的に解決されるしかない。
もし「弱者や怠け者は餓死しても仕方がない」というような考えに立たないのであれば、今日の世界経済のルールのなかで生き続ける限り、上に示したような過激な解決策を考慮せざるをえなくなる。つまりこれは、とりあえず誰も餓死しないための方策だといえる。
なぜなら知識や学力のない低所得層の人たちがつける仕事はどんどんなくなっていく一方で、就労せず生活保護を受ける人たちが急増することで、社会保障制度は破綻へと一気に突き進むのだから。


この、生きるための最低限の収入を全員に給付し、代わりに「奉仕作業の義務」を課するというプランのポイントは、ある種の労働が、「賃労働」から「奉仕作業」へと意味をすっかり変えてしまう、ということだ。人々は直接に金銭のために働くのではなく、社会への奉仕作業として労働を行うことになる。

義務・自由・依存

「賃労働の(部分的な)死滅」、それがここで描かれている近未来のビジョンである。
ぼくが驚かされたのは、それがここ数日ぼくが書いてきた「労働観」のようなものと、多くの点で符合していると思えるからだ。
たとえば、ぼくは労働の「社会的有用性」や「やりがい」を、金銭の報酬と結びつけるべきではないと考え、「社会的に有用な労働」は、ボランティアで行えばよいと書いた。その代わりに、生活のための収入は全員に一律にクーポン券のようなものを配ったらいい、とも書いた。これは、ヨーロッパの団体が提唱しているという上記のプランと、どうもよく似ている。でたらめな意見だったが、言いたかったことの核心は、賃労働という概念への疑問である。
上記の解決策は、これにひとつの答えを与える。生きるために必要な金銭は、労働の「価値」とは無関係に、全員に一律に配布されるのだ。しかも、社会主義とは異なり、「上に上がりたい」人の意欲や欲望は、否定されない。高収入を求めてチャレンジすることは自由である。
ただし、「奉仕作業の義務」が課せられる、ということだ。ぼくは「ボランティア」と書いたが、ボランティアは元来自由意志で行われるべきものだから、「義務」とは両立しないようにも思えるが、しかし全員を「奉仕(ボランティア)」に動員するには、義務化はやむをえないかもしれない。ともかく、それが「全員が生き続ける」ための道なのだ。


ここでひとつ思うのは、最近日本の政府や与党などから、「労働の義務」とか「奉仕作業」という言葉を、若年雇用問題についても教育に関してもよく聞くが、それはたんに昔風のモラルを復活させるとか、徴兵制を実現するといった意味だけではなくて、ここに書いたような、非熟練労働の賃金の歯止めのない低下や、社会保障制度の破綻といった、現代社会の不可避的と思われる変化に対応した、世界共通の処方のひとつであるのかもしれない、ということだ。
新自由主義的な「弱者は死すべし」といった激しい社会思想に立つわけにいかない日本の為政者や官僚たちが、今回もまた、上記のような社会主義的な体制を作ることで、現代社会の急変に対処しようとしているのかもしれない。


またぼくは、文革時代に訒小平が地方に幽閉され、午前中だけ工場で働いて、午後は畑仕事や読書やトランプをしていた生活を「理想」だと書いた。この生活は、基本的に自由のない暮らしだろうが、上記のビジョンが約束するのは、たぶんそれに似た生活である。
人々は、安定した生存を保障される代わりに、自由の多くを失うだろう。これは、どこか全体主義に似てさえいる世界像だ。
だがそれでも、ぼくはそうした生活を「理想」と考えたのである。
ぼくは、自分のことを全体主義者だと思ったことはないが、ぼくが理想とする労働と生存のあり方は、どこかこうした「自由の断念」ということに似ているのだ。
これは、何を意味するだろうか。


そこで思い当たるのは、次のようなことである。
ドーアが言う強者の欲望の無際限な自己肯定という意識のあり方は、弱者の側の「強者になろうとすることの断念」の肯定ということと重なっているのではないか。つまり、それらは「動物化」(東浩紀)という言葉で括れるのではないか。
どこまでも一人勝ちし続けることと、「降りること」、働かないことは、意識のあり方としては、近代的な規範の否定ということでは同じである。年収が数億、数百億というような「勝ち組」の人たちと、ぼくのような「非労働」「非競争」をよしとする人間とは、精神的には同じ場所に居るといえる。
動物化」自体に異を唱えても始まらぬだろうが、危惧されるのは、両者が、たぶんどちらも依存的だということである。強者は「市場原理の無誤謬性」という幻想に、また後者は自分を支えてくれる国家や家族といった枠組みの持続という幻想に、それぞれ依存している。それが幻想だということを知りながら、信じようとしているのだ。そこに大きな不安と不信、暴走や暴発が生じる理由がある。
強者は自分のなかの「非競争」的な面を自覚することを恐れ、弱者は自分のなかの「競争」的な面を直視することを恐れて、それぞれの幻想の殻のなかに閉じこもっている。そんなふうにもいえるのではないか。