見えないクーデター

生活保護制度に関する冷静な報道と議論を求める緊急声明
http://www.moyai.net/modules/d3blog/details.php?bid=1510


問題の本質から外れたところで、人々に鬱積した差別的な感情を煽るような仕方で、特定の「犠牲」(生贄)が選び出されてバッシングされる。
その高揚した、殺伐とした雰囲気を背景にして、積み上げられてきたはずの議論や、制度の本来の問題点や、現場でのさまざまな努力、より根本的には、人命や憲法の理念や民主主義の手続きといったものが全て蔑ろにされて、なしくずしの制度の改変、いや、人命を尊重するような社会のあり方(それはもちろん、従来からまったく不十分なものではあったのだが)の破壊という暴力が行使される。
これは、周到に計算された、「民心」を利用したクーデターのようなものだ。
こういう反動的な暴力を行使している自民党の議員や、それを容認している党の幹部はもちろんのこと、それを操っているのであろう役人たち、便乗して法制度を強引に改悪しようとしている厚労相や首相をはじめ与党の連中、そして「中立」を装って、実際にはこの巨大な暴力の主たる実行役を担っているマスコミの多くは、全て恥を知らなければならない。
「記憶の暗殺者たち」という言葉があったが、今起きているのは民主主義と立憲政治(日本ではそれらは実現されていたものではなく、可能性が維持されていたというに過ぎないのだが)に対する、現在進行の「暗殺」のような事態である。


とりわけ弱者を「犠牲」にすることで、この巨大な暴力・破壊行為が遂行されるという、どんどん顕著になり常態化しつつある、この国の政治の傾向と、徹底して戦わないといけないと思う。
「弱者」とは、今回バッシングの対象になっている芸人たち(彼らは社会システムの中で一時的に持ち上げられ高収入を得ることがあっても、その存在自体常に社会全体が管理されていくための「犠牲」のような存在だとも言える)ばかりではない。
「弱者」とはここではさらに、この悪しき社会体制の改変、ある面では、人々が生命を尊重されるべき「民衆」という資格で政治に参与していくことが可能な政治制度(つまり民主主義)自体の決定的無効化を真の目的としているともいえる、この巨大な政治的破壊行為のための「犠牲」として、現行の不十分な生活保護制度からさえ決定的に排除され、死に追いやられようとしている無数の人たちのことを指している。


現行の生活保護制度は、多くの限界や問題点を抱えているとはいえ(それは、捕捉率がわずか2、3割であることに示されているだろう)、「誰であっても困窮している人を社会全員で救う」という普遍的責務の実現を目指す制度だと言える。
それがここでは、そうした重苦しい責務をネグレクトし、排除的で差別的な日常(それは、当の本人たちを縛り付けているものでもあるはずだが)を維持したいという大衆の低劣な欲望を正当化するための口実として、「扶養義務」という特殊で限定的な責務、しかも実際には法的な「不正」には結びつかないような義務の不履行という事柄が槍玉にあげられ、バッシングの理由にされているのである。
そのことだけでも見下し果てた社会だというしかないが、より根本的な、肝心かなめの問題は、そうしたいわば差別的な「俗情」が、マスコミを含めた政治的権力によって醸成され、操作されているものであり、さらにそれが、一制度の改変にとどまらない、より大きな目的のための道具として利用されていると思われることだ。


狙われているのは、真の意味の民主主義(繰り返すが、それは日本では不十分にしか実現したことがない)の息の根を止めることであり、民衆が政治に参与する権能を実質的に剥奪することこそが目的なのだ。
その代わりに打ち立てられようとしているのは、社会的弱者が血祭りに上げられることで、強者がその欲しいままの支配と管理とをスムースに実行できるような、偽者の大衆政治の仕組みだろう。
社会的弱者への差別的な心情を高揚させ、自ら肯定し、そしていわば彼(彼女)らを集団的に「処刑」していく。その破滅的な快楽のなかで、人々と民主的な政治との関わりの糸は完全に断ち切られていく。
弱者を「犠牲」として追いつめ、文字通り死に追いやることの高揚のなかで、手続きを重ね議論を積み上げたり、現場で話し合いや関係性を深める努力をすること、そしてよりよい社会を形成していこうとする意志が、打ち砕かれ、根こそぎにされていく。
その代わりに人々の内面を充たすことになるのは、支配体制への従属を最大の美徳とするような価値観、そして同時に、「犠牲」への集団的な暴力の行使を「正義」と感じるような反生命的な感覚だろう。
到来するのは、一切の装飾をとりさった、国家主義と資本制社会の露骨な「犠牲のシステム」そのものとも呼べるような社会体制なのかもしれない。
それは一面では、憲法や民主主義的政治形態という、かすかな「重し」によって、戦後一度も清算されないままに封印されてきたこの社会の、差別と犠牲の構造(まさに「靖国」の構造だ)が、公に復権するという事態であるのかもしれない。


そういう流れに飲み込まれ、他人や自分の生命に対する無自覚のなかで生きて死ぬような社会を是認するのか。
いま突きつけられているのは、その問いだと思う。