『働くということ』その4

はじめに、第2章の内容で、きのう書き残していたことがある。
それは、労働の「社会的有用性」に関する話である。平たく言うと、どういう労働が社会的に価値があるとみなされ、また高い給料(報酬)をもらうに値すると考えられるかという基準の話。
これもちょっと複雑な議論がされているのだが(たしかに面白いテーマだよね)、ぼくが関心を持ったのは、社会的有用性と報酬に関して述べられた次の一節。

しかし最近ますます有力になってきており、明らかに厳しく検討を要する一つの原則があります。それは市場主義者の論理で、すなわち民主主義社会においては、社会的有用性を決める唯一の確実な基準は市場における評価であるという論理です。価値・効用があるかどうかの基準は、それを買うのに人がどれだけ金を払ってもいいと思うかだというわけです。(70ページ)


ぼくは収入にばらつきがあるということ自体は、そんなに問題ないと思うんだけど、収入の多寡を定める基準が市場原理ひとつしかないという状態は、あまりにも変だとは思う。上のドーアの文章には、その点で同感である。日の当たらない地味な研究をしている社会科学者や、腕のいいサンダル作りの職人さんなどが、もっと高い収入を保証されたり経済的欲望を満たす希望が持てるような、融通のきく社会になればいいと思う。
だが、それ以前のところで、どうもすっきりしないところがある。
どういう仕事が社会的に有用かという、問題設定そのものが間違っているような気もする。労働を金銭を得るための手段と考えると、それと社会的存在としての個人の行動の価値が結びつけて考えられるということは、ないほうがよいのではないか。
社会的に有用なことというのは、基本的にすべてボランティアで行われるべきで、生活のための収入というのは、全員に一定額クーポン券みたいなものが配られてればそれでよい。
ただそれだと「欲望」を持つ存在である人間はなかなかやる気にならないから、刺激剤的な意味で、付加的に何か適当な理由をつけて報酬の多寡を決めておく。
労働と報酬との関係は、その程度の偶然的なものとしてとらえられるべきではないか。まあ、今の世の中では収入にばらつきがないとみんな面白みがないから、仮にその基準を決めておく、みたいな。
「社会的に有用な仕事をしてるから高い給料をもらうべき」という考え方は、これも原理主義になってしまうだろう。ドーアの言いたいのも、そういうことだと思うんだけどね。


続いて、第3章。ここでは、「労働市場の柔軟性」ということがテーマになっている。
この章は、ぼくにはいささか難しかったのだが、分かるところだけをかいつまんで書いておく。
ここでいう「柔軟性」は、「流動性」ということとも近いらしい。いずれにせよ曖昧に用いられている言葉である。終身雇用の崩壊によって、優秀な労働者がイチローみたいに新しい職場へと転職していけることや、フリーターなどの非正規労働力を企業が大量に用いること、またリストラによる首切りなどが、じゅっぱひとからげにこの言葉で語られている。
こうした意図的ともいえる概念の混乱を批判するのが、この本の狙いの一つであろう。

訳語は別として、もともとの英語が具体的にどういうことを指すか曖昧な上に、その良し悪しの評価が市場至上主義者と市場修正主義者との論争の中核点にあります。良しとする人は大体前章の終わりであげた、売り手市場にいる希少な技能の持ち主を典型的な労働者と考えます。悪しとする人は、むしろ買い手市場に直面する非熟練労働者のことを考えます。「労働市場の柔軟性」は前者にとって、輝かしい未来への道です。後者にとってはしかし、不安と搾取をもたらす懸念の種なのです。(75ページ)


これは分かりやすいな。イチローとフリーターでは同じ状況の意味合いがまったく逆になるということだろう。そこから社会的反目も生じる。だが、これが実は「同じ状況」ではないのだということを示すのが、この章の眼目なんであろう。

二つの柔軟性

ところが、ここから先の説明が、ぼくには難しすぎてよく分からないのだ。とりあえず、重要だと思ったところを抜粋してみる。
「柔軟性」には二つの意味合いがあるのだ、ということ。
まず、労働(市場)の「柔軟性」ということのひとつの意味合いは、かつてたとえばイギリスにおいて存在していた「労働の慣習的規制」と呼ばれる硬直性によって生じる非効率性を打破しようとするスローガンだったらしい。これは、組合の力が悪い意味で強すぎて、労働者自身にとっても資本家にとっても個々の労働者の技能が効率的に用いられない状態であったから、これを何とかしようという動き。
「柔軟性」という語のもうひとつの使われ方は、70年代、80年代に生じた、産業構造自体を変化させようという動き、すなわち「産業調整」に関するものであるという。
かつて50年代、60年代には、労働者の雇用や福利厚生をがっちりと保障することが、雇用と労働市場の安定性を増すことにつながり、

福祉や正義の観点から望ましいだけでなく、生産性向上にも貢献すると考えられていました。(79ページ)


ところが、技術の急速な発達とグローバル化による競争の激化によって、企業のこの方針が変わり、オートメ化の進んだ部署では解雇が行いやすく、また今すぐ業務を拡大したい部門に熟練した労働者(プロ野球の助っ人みたいなもんだな)を迅速に入れやすいような制度に改革してくれという要求を、政治家たちにするようになった。
他にも理由はあったが、まあこれが大きかった。
というわけで、「二つの柔軟性」についてのまとめは、次のようになる。

このように「柔軟性」は非常に異なる二種類の意味を持つようになったわけです。まず、労働者が自分の持っている技能を可能な限りどんな仕事にでも発揮する用意、および経営者が訓練で絶えず磨かれたその技能的資源を適切に配置する能力という意味です。つまり、今はやりの言葉でいえば、企業組織のコア・コンピテンス(中核となる得意分野)強化の諸方法を指します。もう一つの意味は、経済全体での労働の配分を最適化するために経営者の採用・解雇の自由を拡大し、必要に応じてリストラを行い、そして必要な技能を外部労働市場で容易に見付けることを可能にする、というものです。(79ページ)

日本型システムの擁護・「人事の市場志向」批判

さて、ここまではまあ分かったが、ここからが難しいんだよなあ。
労働力の効率的な使用を目的とした前者の柔軟性を「内部的柔軟性」、解雇・リストラ・フリーターなど労働力の部品的で使い捨て的な使用を目的とする後者の柔軟性を「外部的柔軟性」と呼ぶのだそうだ。
この「二つの柔軟性」に関して、著者のスタンスは結局のところ、後者の外部的柔軟性によらなくても、「内部的柔軟性」のみで企業の体質強化は可能であるということであるようだ。著者は、終身雇用に代表されるいわゆる日本型のシステムの持つ有利さ(企業との一体感や相互信頼など)を、この「内部的柔軟性」ということとつなげて高く評価しているらしい。イギリスのような敵対的な労使関係と違い、日本的な労使協調の「会社」のあり方は、「内部的柔軟性」実現のための優れた特殊文化的システムである、という見方だと思う。
だから著者は、小泉改革には強く反対している。
しかし、「内部的柔軟性」と「日本型会社システム」とがどう重なるのかということが、ぼくにはいまひとつ分からない。
ともかく、「終身雇用制も、経営システムとして合理性がある」という話で、あくまで資本主義システムの枠内からの現状批判であることは間違いない。


著者が言うには、中核の社員を大事にしようという終身雇用的な人事の発想と、外部労働市場をフルに使おうとする人事の発想とは、根本的に別である。
だから、終身雇用制を日本の企業が手放さないことが、フリーターなどの非正規労働者の立場を弱めているわけではない。言いたいのは、そういうことなんだろう。
著者はこの二つの発想・世界観を、「組織志向」(終身雇用)と「市場志向」(外部労働市場)と呼んで区別する。
今、日本でもこの後者の「市場志向」、つまりリストラして社員よりもフリーターを利用しようといった発想だけど、そちら経営思想の方が強くなっている。
その理由としてよく言われることは、失業者を減らすためには、その方がいいのだということである。つまり、倒産して全員が失業してしまうより、フリーターや派遣社員であってもより多くの人に仕事が回る方がいいではないか、ということだ。
だが、統計的にそういう効果が実際に出ているかというと怪しい。また多くの人の賃金が低く抑えられることによって消費が低迷し、故に企業の業績も悪くなって、結局みんなの経済状態が余計苦しくなるはずだ、と著者は言う。
そこで、人事の「市場志向」という経営思想が優勢になった背景には、組合の力を抑えようという政治的な意図とか、いくつかの他の要因があったのではないかと著者は考えてるのだが、その辺は後でも出てくるのでここでは触れないことにする。


拡大する不平等・技術革新の影響

著者が大きな関心を寄せているのは、市場原理からもたらされる「不平等の拡大」という事態は、どこに由来するのかということである。
まず、終身雇用制の終焉という事態と、「不平等の拡大」ということとは、直接関係がない。「不平等の拡大」の原因の説明としてよく述べられているのは、労働組合の力の低下、技術革新、低賃金開発途上国の世界貿易への統合、という三つである。
このうち、最後のものは、労賃の安い中国などに工場が移転されてしまって失業者が増えるといったことだが、長期的には経済の改善につながるはずのことである。しかし、たとえそうなっても、「適応しきれない人たち」が社会にかなり残るはずだ、と著者は言う。
労働組合の力の低下ということも重要な原因だが、著者がもっとも重視するのは、「技術革新」というファクターである。この要素というのは、グローバル化や失業や規制緩和の問題などが語られるときに、最近あまり聞かれなくなった要素だと思うが、著者はこれを大変重要だと考えているのである。これは、教育の問題とも密接に関係していて、読んでいてぼくにも興味深いところであった。
コンピュータなどの技術の発達は、一方では専門的な知識を駆使できる優秀な技術者のような人の希少価値を高める。SEみたいな人たちだね。また一方では、事務を含めた単純作業のようなことを機械が全部やってしまうから、そういうことをやってた人たちは職を失ってしまう。こういう傾向が、社会全体に生じるわけだ。
専門的で高度な知識を所有する人の収入はどんどん高くなり、それがない人たちの収入はどんどん下がる。どこまで下がるかというと、生活保護でもらえる金額と大差のないところまで下がってしまう。となると、福祉制度が確立されている限り、労働意欲を持たない人たちが増えるのは当然である。働いても働かなくても収入に差はないわけだからね。
この問題に解決策はあるか。非常に難しいと著者は考える。全体の教育水準を上げるというやり方には、多くの限界がある。いわゆる「不平等社会」とか「希望格差社会」の問題である。高度な教育を受けることができ、高度な知識を得られる人たちの集団が、社会階層として固定化してきていて、世代を越えて富と貧困が継承される傾向が世界的に生じているということ。このことは、貧しい階層における失業の慢性化という世界的な傾向にも関連している。
また一方で、年金など社会福祉制度と国民国家の枠組みの問題でもある。
こうした点が次章でくわしく触れられることになる。


一方で、これとは別の問題として、今日、社会のトップクラスの層の人たちの所得がどんどん高まっているということがある。このトップクラスの人たちの収入の増大が、中間層の人たちの収入の増大と、低い層の人たちの収入との格差の広がりの原因になっていると、著者は見ている。したがって、このトップクラスの人たち、多くは企業の経営陣であるが、その収入が天文学的なレベルにまで肥大するという異常な現象がなぜ起きているのか、その原因を考える必要がある。
第4章では、そのことも重要なテーマにされている。