内田樹・ノストラダムス・朝鮮半島

今日も、他の方のブログで印象に残った記事の感想。


id:kwktさんのサイトで紹介されていた、下記の内田樹さんのインタビュー記事は、色々と個人的に考えさせられた。

http://www.mammo.tv/interview/117_UchidaT/

このなかで、内田さんは、インタビュー当時20歳だったというご自分の娘さんのことを例にあげて、次のように語っている。

99年に世界が滅びるという「ノストラダムスの予言」がありましたが、娘の同世代は、あれをまともに信じていたわけではないけれど、そういう終末的予感の中で十代を過ごしてしまったということの「傷跡」は残っていますね。あの子たちは、バブル時代の経済的な繁栄をいわばローマ帝国の終焉のように冷ややかに見ていた。「こんなことが続くわけはない、もうすぐ世界は終わるんだ」という漠然とした予感を抱いて小中学生を過ごしていたようです。

ぼくのノストラダムス体験

ぼくは、この娘さんとはだいぶ世代が違うのだが、共通する部分があるようだ。「ノストラダムスの予言」というのは、ぼくが高校生の頃、80年ごろにすでによく知られていた。調べてみると、五島勉の『ノストラダムスの大予言』が世に出たのは、73年らしい。
ぼくも、もちろん発表当時から内容を知っていたが、たまたま高校一年生だった78年ごろ、週刊誌でそれに関する記事を読んだときに、気持ちの中にこのことがズシンと入ってしまい、ひどいノイローゼのような状態になった。ぼくは、小学校の頃から学校にあまり行っていなかったりしたのだが、このときに受けたショックは、相当大きなものだった。
ともかく、自分は1999年には、間違いなく死ぬと思ったのである。それから数年の間、非常に不安定な精神状態が続いた。この時期が、その後の自分の人生に与えた影響というのは、計り知れないように思う。問題はそれ以前から大きくあったわけだが、年齢的なこともあり、歪みたいなものが一気に表面に出てきた時期だった。ぼくは、目立たない形で、このときに完全に「降りて」しまったという気がする。
実は、この後にもっと大きな経験があったのだが、そのことは書きたくない。ともかく、そんなことがあって、「99年に自分も世界も終わる」ということは、ぼくにとって、当初は非常にリアルな認識だった。自分がそれ以上生きられないということもだが、世界そのものがその時が来ると終わるということは、たとえようもなく重い事実に思えた。
この認識そのものはかわらないままに、5年、10年と経つなかでそれは曖昧な意識に変わっていった。つまり、「間違いなく死ぬ」という思いは変わらないのだが、日常のなかにまぎれてしまって、現実感がなくなったのである。そうなった理由のひとつは、上記の「もっと大きな経験」というのが関係しているわけだが、とにかく、そういう苦しいことはなるべく意識しないようにして暮らしているうちに、やがて本当にそのことを忘れてしまったようである。そして、99年が何事もなく通り過ぎたときには、かつての認識は、ぼくにとって何の意味も持たなくなっていた。
このことは、恥ずかしい気がするので、あまり人に言ったことはない。こんな通俗的なくだらないことで、人生観が大きく左右されたような気がしたことが、人に言えない恥ずかしいことである気がしたのだ。切実さも深遠さもないそういうフワフワしたことに作用されている自分というものを知られることが、嫌だった。
だから、内田さんが、こうしたことを、上記のインタビューのなかで「傷跡」と言っておられるのを読んで、たいへんありがたい気がした。


そういう表層的なもの、消費社会的でも、オカルト的でもあるものに人生が大きく作用されてしまうということは、もっと若い世代の人の方が、多く経験していることなのかもしれない。
こうしたことは、人に伝えて価値があると思われるような「深さ」のない経験であるだけに、語ること自体が無力感を伴う。「自分の内的な経験には、語るべき内容がない」という気がするのである。これはこれでたいへん辛い。

70年代と「民主化」の挫折

ところで、内田さんという方は1950年生まれだそうだから、ぼくはちょうど、内田さんと娘さんとの中間ぐらいの年齢であろう。
このインタビューのなかで語られている、内田さんの世代の体験も、ぼくには共感できるところがあるのである。それは、こういう箇所だ。

60年代がわりとよい時代だったと思えるのは、日本社会と世界の動きとがけっこうリアルタイムでリンクしていたということですね。日本の各地で学園紛争がありましたが、それとまったく同じ時期にフランスでも5月革命があり、アメリカでも公民権運動とかブラックパンサーの動きがあった。自分たちのやっていることは、世界中で行われていることとつながっている。そういう幸福な誤解の中にいることができました。70年代に入ると、それが一挙に内向きの世になってしまいましたけど。


この、60年代と70年代の落差というのは、非常によく分かる。70年代というのは、ぼく個人にとってもそうだったが、日本の社会全体も急激に閉塞していく時代であったという感じがある。
60年代というのは、ぼくには幼いころの印象しかないわけだが、明るさや開放感がたしかにあった。最近、『パッチギ!』や『69 sixty nine』など、60年代末を舞台にした映画があったが、それらを見ても、また上の内田さんの話を読んでも、日本が世界とつながっているという「幸福な誤解」が、この明るさのひとつの大きな原因であったのだろう。
それが、70年代に入ると、急速にしぼんでいった。経済的には高度成長の終わりということがあり、政治的には連合赤軍事件などにおける左翼・学生運動の自壊と、体制側による徹底的な封じ込めということがあったと思う。この封じ込めは、後藤田正晴という人がキーパーソンのようになって、80年代の「国鉄解体」まで、ずーっと進行していく。
ぼく自身にとっては、ここでも書いたように70年代の「内向き」の感じは、日本と朝鮮半島の情勢との距離感に重なっていた印象がある。60年代の若い世代がつながりを実感した「世界」は多くの場合「幻想」だったが、朝鮮半島だけは「現実」として存在した部分があったのではないか*1
あの時代の出来事は、日本における「民主化」の挫折の過程だったのではないか、と思う。


そういう社会の動きと、自分の個人的な心理の経験とが、どこかで重なっているような気がする。社会全体を覆う大きな力の働きにまるめこまれるようにして、その後の自分の意識のあり方が形成されていったように思えるのだ。
だが、自分の個人的・心理的な経験の問題と、日本の社会における民主化の挫折という出来事とを、どう結びつけ、またどう腑分けしていくべきか、まだよく分からないところがある。

*1:注『69』の原作を書いた村上龍にとっての「海の向こう」も、本当は端的に朝鮮半島だったのではないか。