引き続き、柄にもなく労働を語る

きのう書いたことの補足で、労働についての話。


『働いても働かなくても生きていける社会が理想』だと書いたが、いまの日本の社会の根本的な問題は、生きていくために働かなければならない絶対量が大きくなりすぎたことだと思う。この状態を変えないで、「若年無業者」の数を減らそうというのは、根を絶たずに枝葉だけを処理しようとするもので、うまくいくはずがない。歯車になる未来しか見えないのに、どうやって現状から抜け出そうという意欲がわくのか。「自由競争」とか「新自由主義」というスローガンが、どうも嘘や見せかけであることに、みんな薄々気づいているのだ。
政府や産業界としては、本当はそうしたことが分かっているが、他の意図があって、あえて若者のことだけを問題化しているのではないか。


29日の催しの後の交流会で、ある参加者が「今の正社員は、各自が経営者にさせられてしまっている」という発言をしていた。ぼくにははっきり分からないのだが、従業員であっても、いわゆる「自己責任」をとらされている、という意味だろうか?
労働者個人が責任を持ってやらなければいけない仕事の範囲というものが、法外に広がっているという現状があると思う。必然的に、労働時間が長くなり、過労死なども増える。
先日のJRの大事故にしても、利潤追求の経営体質が批判されている(と思うが、そうでもないのか?)が、あの会社は特にひどいとしても、どの企業でも従業員個々が過剰な労働を「競争」や「自己責任」の名の下に強いられているということは、よく聞く。公共交通機関はもちろんだが、トラックやタクシーのドライバーなどの場合、過労はただちに死に直結することになる。
個人が責任を持たされる仕事の範囲の拡大という傾向は、非正規雇用の場合でも同じであるようで、工場での流れ作業でも、ある程度の工程を各人がそれぞれにもたされて競い合うような形態に変えたことで、生産性を上げている会社もあるらしい。
こうしたやり方だと、個人の能力差や努力の差が、業績と賃金に反映されて「やりがい」が生じる、と経営側は主張したいのだろうが、現実には各個人の負担が増大し、企業がリストラを実現して身軽になっているというだけの話ではないのか。


先日紹介したNHKの『日本の、これから』という番組でも、タクシーの運転手さんたちの、個人がやらねばならない仕事の量が増えて、労働時間が法外に長くなっているのに収入が極めて少ないという実情が紹介されていた。このようになるのは、「規制緩和」のせいであるから、これを見直して欲しい、という主張だった。同様の悲鳴は、トラック業界などからも聞かれる。
経済のグローバル化というものが進行し、企業が大幅なリストラをやらなければ競争に勝ち残れなくなった。グローバル化の動きは抗いようがないので、「規制緩和」は行わざるをえない。だから、リストラと労働時間の増大による企業の体力の強化は不可避である、という理屈であろう。
あの『日本の、これから』という番組では、労働組合などの言い分を聞いて企業が「労働者に優しい」経営に切り替えてしまったら、結局中国との経済競争に日本は負けてしまって倒産や失業が大量発生し、元も子もなくなるというところで、話が煮詰まっていたと思う。つまり、グローバル化に対応するためには、労働者個々の負担が増えるのはやむをえない、というのが経営側の本音か。
それならこれは、「自由競争の導入で、個々人の能力や努力に見合った成果(収入)を」という、いわゆる自由主義経済のうたい文句とは、本当は別の話だろう。どちらかというと、「全体(日本経済、会社)のために、個人は犠牲になれ」という話であると思う。それが現実なら、そうはっきり言えばよい。


しかし、本当にそれ以外に道はないのか。ヨーロッパがやっているように、アジア諸国なりアメリカなりと手を組むことで、グローバル化の圧力を和らげるという方策はとれないのか。グローバル化は不可避だという前提があり、その上でセーフティーネットをどうするかという話になってるようだが、特に大きな企業のやり方を見ていると、既得権益を守ろうとするがために無用の負担を個々人に強いているというのが日本社会の現状ではないか、という疑いがやはり残る。
この無理はどこから来ているかというと、日本の経済や政治のシステムが、戦前からの旧態依然とした部分を残したまま、グローバル化のなかで生き残ろうとしているところにあるのではないか。このやり方を推し進めれば、一応「日本経済」というものは生き残っていくのだろうと思うが、それは多くの労働者の犠牲の上に、ということになろう。そして、「労働者」という特別なカテゴリーの人たちがいるわけでなく、われわれは誰もが労働者とその家族であり、同時に消費者でもある。今回のJRの事故で死んだ人たちも、みな労働者とその家族である。「競争」のために強いられた過剰な労働の犠牲になった「労働者」は、運転していた青年だけではないのだ、と思うのである。


「自由競争」というが、その競争に参加しない自由は与えられない。つまり、「強制された自由」なわけだが、そうした新自由主義というイデオロギーを唱えることで密かに継続していくシステムというものがやはりあり、それを選び続けるかどうかを問うことが、本物の自由ではないだろうか。


労働についての話、次回に続きます。