文革について

このところ職場で毎日、1980年前後に中国で出版された本をあつかっている。どの本も、表紙をめくったところに内容紹介の文章が載っているのだが、ほぼ例外なく「この本は四人組追放後はじめて著者が出したもので」みたいなことが書いてある。
80年というと、文革が終わった直後で、それまで出版を許されなかった多くの書物がそれこそ「百花斉放」という言葉どおりに世にあふれたのであろう。
ぼくの年令だと、四人組と聞いても、江青王洪文と、あと誰だっけ、という感じだが。


衆院選で与党合わせて3分の2の議席を占める圧勝をおさめ、自民党内に抵抗勢力どころか反対者もほとんどいなくなったような小泉首相の政治手法を評して、一部ではスターリンとの類似が言われているが、ぼくは今の状況を見ていると、文革の方を思い出してしまう。
理由は簡単で、


① 毛沢東は「大躍進政策」の失敗を糊塗する必要があったが、スターリンは「五カ年計画」が行き詰っていたわけではない。
改革の進行や景気対策、外交面などにおける行き詰まりを「郵政民営化」に焦点を絞り込むことで覆い隠そうとした今回の小泉の狙いは、スターリンよりは、毛沢東の動機に似ている。


②それ以上に、大衆(世論)の絶大な支持を武器にして、イデオロギーにもとづく徹底した改革の遂行という名のもとに、政敵を一人づつ槍玉にあげて葬っていく小泉のやり方は、劉少奇訒小平を失脚させていった毛沢東の権力闘争の方法をこそ、想起させる。


③実はこの点をもっとも強調したいのだが、文革は権力闘争であると同時に、やはり「紅衛兵」と呼ばれた若者たちによる旧体制への否定の動きという側面をもっていた。それは60年代後半に、欧米、日本や東欧で湧き起こった反システム運動と通じている。
反システム運動は、ソ連ならスターリン時代、アメリカならニューディール時代、また日本なら「総動員体制」の時期というように、30年代から40年代前半にかけて各国で成立した官僚支配的な国家のシステムに対する異議申し立ての動きだったと考えられる。
そして、今回の小泉政権に対する支持の合言葉となったのも、(官僚支配の構造に対する)「改革を止めるな」ということだった。
「改革」の名のもとに旧来の構造を容赦なく打ち壊していこうというスローガンが人々を魅了しているようにみえるところが、やはり今の状況は、ぼくに文革を思い出させるのである。


この最後の点からいえることのひとつは、今回の政治的な事態を、たんに権力闘争の側面だけから、そしてそのためのマスコミを動員した世論の誘導の結果としてだけ見ることは、やはり皮相だろうということだ。
それは、文革毛沢東の保身のための策謀としかみない歴史観と大差がない。
今回の選挙結果が示しているのは、たんに世論の誘導というようなことよりも、もっと根本的な人々の意識の変動である。
根本的だという意味は、きわめて恐ろしいということと同時に、両義性をはらんでいるかもしれない、ということでもある。


独裁的な権力を手にしつつある首相が率いる与党が議会で圧倒的な多数を占め、しかも「ネオコン」とあだ名される若手政治家が野党第一党の党首に選出された今となっては、彼らに抵抗しようとする人々がなしうることはわずかしかない。
ただこの恐ろしい根本的な変動の正体を、自分と他人のこころのなかに注意ぶかく見つめること、そしてできればそれをいつくしむことにしか、当面抵抗の拠り所はないように思う。
これは、政治的にはまったく意味のない、むしろ反動的な発言でしかないかもしれない。


だがそこに、この社会から失われた社会的な紐帯を回復する鍵があるのではないか。
いやそれは「回復」というよりも、本物の紐帯をはじめてぼくたちが手にするための鍵なのかもしれない。
その鍵が見つからないかぎり、この「悪い夢」からぼくたちが醒めるチャンスはないのだと、ぼくは思っている。