脱落と自分

最近、もっとも印象に残った記事。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050419#p1


ぼくの場合は、id:ueyamakzkさんとは、事情が違うので、同じには語れないはずだが、ここに書いてあることは、少し判る気がする。

仮にかつては深刻な状態を経験していようとも、生活体験のなかで新しいチャンスに恵まれてゆけば、かつての限界的な精神状態を(いい意味で)忘れてゆく。

「いい意味で」なく、忘れていくということもある。
「脱落」の体験が言語化できるとすれば、そこから社会的な生活への移動の過程に関してだと思うが、自分は本当に移動を行ったのか。「忘れる」ことで、その移動を行わずにやり過ごしてきたのではないか、と考える。

「脱落による傷」は――いやどんな傷であれ――、それ自体としては、何の意味も持たない。 誰の役にも立たない、単にないほうがよかった、本当に何の意味もない。

あれほど苦しかったのに、「意味がない」。

ここで書かれていることとは意味が違うと思うが、ぼくも「まったく意味のない人生を生きた」という思いで、非常に苦しんだ時期があった。最近は、そんなことを思わないが、まぎらしているだけではないか。あの時に苦しんだ自分というのは、どこへ処理されてしまったのか。
ここでいわれている「傷」というものに当たるかどうかは分からないが、自分もやはり何十年間にもわたって、なにかから脱落してきたと思う。そのことと自分は真剣に向き合っていない。


「脱落」ということには、たしかに意味がないかもしれない。それに「意味がある」と考えてしまうと、今生きている自分の現実性を否定することになりかねないだろう。
ただ、「脱落」することによって、自分のなかのなにかを守ったということは、言えるのではないか。もちろん、それは「脱落」以外の方法でも守れるものだろうが、その人が置かれた状況において、その人が現実にとった方法は「脱落」だった。あるいは他の方法がありえたかもしれないが、自分がその方法をとったという事実は唯一無二だろう。間違った方法だったかもしれないが、唯一無二だ。
そういう意味では、「脱落」は、その人の人生において意味があったといえるのではないか。


では、「脱落」によって守られるものとは何か。これは、一般的にはいえない。「生命」である場合もあるだろう。非常に辛い体験をして、その傷から自分を守るために、社会的な「脱落」(非社会化)という方法をとらざるをえない場合もあるだろう。
一見、社会生活を送っていても、自分に殻をかぶらせることでかろうじて「守って」いるという場合もあると思う。ただそれを、「脱落」と同義に扱っていいかどうかは、分からない。
いずれにせよ、何かすごく大切なものを守るために、人は「脱落」という手段をとる場合がある、といえるのではないか。この手段そのものを神聖化することは転倒になってしまうだろうが、そうしなければ守れないような大事な何かが自分のなかにあると、本人に感じられたことは事実であると思う。
ぼくが思うのは、この大事な何かは、本来社会的なものなのではないか、ということだ。自分のなかにある本当の意味で社会的なものを、周囲の圧力や危機から守るために、「脱落」し、閉じこもるという選択をした。だから、この「守った」という事実を完遂するためには、それを他人に向けて送り返す必要がある。そして、そういうものを「守って」来た人には、潜在的にその能力があるのではないか、と思う。
それは多くの場合、「守らなかった」人においては、喪失されている能力ではないか。


ぼくはこの「大事な何か」を、人間としての変容の能力、もっと簡単な言葉で言うと、「軟らかさ」のようなものだと考えている。これは、人間が他の人間と共に生きるうえで、非常に大事なものであろうと思う。
ぼく自身が、その大事なものをきちんと社会(他人たち)のなかに投げ返しているか、それが本来あったはずの場所に接続できているかと問われると、今はほとんどできていないと答えるしかないのだが。