憤怒の父はアイコン化に抗う

「自分のほかにも世界があることを思い知ったか。これまでおまえは自分のことしか知らなかった!本来は無邪気な子供であったにせよ、しょせんは悪魔のような悪だったわけだ!――だからこそ知るがいい、わしは今、お前に死を命じる、溺れ死ね!」
                          カフカ作『判決』より 池内紀

きのう浅田彰さんのことを書いたが、最近不思議に思っていたのは、「知識人の権威が失墜した」とか、「現代思想は過去のものになった」とか言われるわりには、色々なブログで浅田さんや東浩紀さんや内田樹さん、宮台真司さんなどの名前をやけに目にするということだ。有名なブロガーでもある内田さんは当然としても、特に東さんや宮台さんの名前は、よく色々なサイトで目にする。ぼく自身も、東さんのことは、何度も記事にさせてもらった。
これはどうしてかと考えていて思いついたのは、以前に書いた『新潮』の対談磯崎新さんが言っていた「アイコン」という概念のことだ。


この言葉は元来「象徴」という意味があるらしいのだが、あの対談では例として「イカロス」、「フランケンシュタイン」、「ゴジラ」などの名前が挙がっていた。また、バーミヤンの仏像やワールドトレードセンターもアイコンであって、アイコンであるが故に破壊の対象になったのだと、磯崎さんは言っていた。
ひょっとして、いまや「東浩紀」とか「宮台真司」、「浅田彰」は、ウェブの世界ではアイコンとして機能しているのではないか。それなら、いわゆる現代思想の権威が失墜した後に、彼らがなお盛んに言及の対象とされていることも、なんとなく納得できる。
そう考えると、浅田さんの今回の発言は、自分がアイコンとして扱われるような言説空間に対しての、アイコン(象徴)化された当事者からの異議申し立てであり、また「象徴」がブログという想像的な世界に介入することによって、この世界の言説のあり方を現実の世界のなかに参入(自立)させようという、「父」の振舞いであったのかもしれない。
無論、それをどうとらえるかは、息子たちの問題だが。


いや、というよりも、自分が「象徴」化されてしまうことへの「父」の怒りであって、その怒りとの闘争を通して、「息子たち」は、次の世界を切り開いていかねばならぬ、ということか。
カフカの『判決』の、「憤怒の父」のように。


ぼくがこういう考え方をするのは、きのうも書いたように、ブログなどウェブ上の世界でいくら言論が花盛りになっているように見えても、それは現実にはまだ非常に無力なものであって、それが既存や旧来の力に対抗するには、現実的な何らかの「形」を獲得する必要がどうしてもあるだろう、と感じているからだ。この感じは、「苛立ち」に近い。


R30さんのサイトで今日たまたま目にした、こちらの非常に優れたエントリーも、ぼくはそういう文脈で読んで「意を得たり」という気がしたのである。


たしかに、情報に関して言っても、『イニシアチブは媒体側が握っている。』、『ではネタ元としてネットが主力たりうるかというと、まだそこまで至っていない。』というのが、現実であろうと思う。そして、

すなわち、新聞や雑誌などの一定のコストを支払って得られる情報以上のものは原則としてネットには存在しておらず、それがいかに容易に頒布されていると主張したとして、それが理由で情報が万人に等しくもたらされていると判断するのは誤りであるということになる。


また、

ネットにぶら下がって情報を集めるという行為自体が、それこそ次々やってくる衝撃的な情報に対応するだけで終わり、結果として「次に何が起きそうか」という考察にはつながっていかないのではないかと恐れる。

ぼくはこの現状認識が正しいのではないかと思う。
まずこうした無力な現実を見据えるところからはじめないと、若い世代は「父」たちとの「権力闘争」にはなかなか勝てないだろう。


また一般論として言えば、「父」に対する息子たちの闘争を、「叔父」たちがどれだけ支援してやれるかが正念場ということになるだろう、とも思う。
上に紹介した切込隊長氏の発言も、そういう腹だろう。
だけどそう考えると、浅田彰は「憤怒の父」なのか、それとも「独り者の叔父」なのか。
難しいな。


それから書き忘れてたが、「アイコン」ということで言うと、いわゆる有名なブロガーのハンドルネームもアイコンとして機能している部分があるのではないだろうか。だとすると、それはやはり、より大きな者の掌のなかで「流通させられている」ということになる。
「アイコン化への抵抗」は、ネットの世界の住人たち自身にとっても、重要なテーマであるのかもしれない。


明朝は早起きして花見の場所取りに行かなきゃならないので、今日はここまでにします。

カフカ短篇集 (岩波文庫)

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