「『靖国』問題」とパターナリズム

Apemanさんのエントリーより。


期待権」について追記
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080415/p1

本当ならば、この件についてはArisanさんの一連の考察(このエントリを中心とした)の問題提起にきちんと答えるかたちで書こうと思ってたのですが。十分な交渉力を持つエージェントである靖国神社はともかくとして、90歳になる高齢者を取材対象とする場合には(パターナリズムに陥る危険性を考えてもなお)取材趣旨の説明にあたって通常以上の注意が払われるべきで、贔屓のひきたおしでその点についての検証を怠るのはよくない、と。


ぼく自身は、この件についてこれまで書いてきたことには(ご指摘のように)、パターナリズム的な面があったかも知れないという反省がある。
それは、以下のような部分に関して。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080411/p1

だから、「表現の自由」がいくら大事だからといって、またこの映画が明白にそれを侵害されているという現実があるからといって、この当事者(刈谷さん)の発言を、「圧力による翻意」と決めつけて、元の形での映画の上映を原則論として主張するつもりは、ぼくにはない。


映画作りに携わった人たちによって、最善の判断がなされてほしい、ということしか言えない。

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20080412/p1

「だまされた」と言っている、この人の言葉を、まずはそのまま傾聴する必要がある。


そして、「(自分の出演場面を)削除してほしい」という言葉も、「誰かの圧力で言わされてるのだ」と決めつけるような態度は、(「だまされた」と)被害を訴えているこの人の意志や言葉を否定する暴力的なものになるだろう。

表現する側は、被写体となる側に対して、やはり一種の暴力を加えうる立場にあることは確かだろう。


以上のことに関して言うと、取材対象者(ドキュメンタリーの出演者)の心情や意志に配慮すべきだということは、表現における一般論として言えるとしても、そのことが事実上作品の公開を困難なものにする程の取材対象者(出演者)自身による異議申し立てを、どこまで正当化すると考えられるか、という点。
たしかに、出演者によるそのような申し立てが、すべて当然の権利のように通ってしまうなら、ドキュメンタリー作品の公開や制作自体が困難なものになるであろう。
そうなることが、映画に関わり出演した当人自身の意を本当に汲むこと、その人(の行動と責任)を個人として尊重したことになるのか、ということである。


(Apemanさんが書かれているように)作品を作る過程で、作り手の出演者(取材対象者)個人に対する配慮が十分だったかどうかということは、問われる余地があるとしても、そのことについて作り手を批判する自由は、言論によっても、もしくは(最終的には)法的手段によってでも、取材対象者自身に認められているわけだから、事実上作品の公開を不可能にするような(作品の)改編を要求するという形で、その異議申し立てを行うこと、またそれを受け入れて対処するということに、果たして妥当性があるといえるのか。
言論・表現の自由は守られねばならず、一方で取材される出演者の人権・心情や、制作・取材上の倫理・道義・手続き・ルールといったものも守られねばならない。
とすると、両者をどのように折り合わせていくかということは、個々のケースにおいてそれぞれ綿密に考えられるべき事柄だ。
この場合、(当人の言葉を理由とした)作品の大幅な改編(削除)という方法は、当人(出演者個人)の権利や自由の尊重ということとは異なる、別の社会的な意味(意図)を持ってしまうのではないか?


刀匠自身の言葉を無条件に受け入れて、作品の大幅な改編(それは事実上、作品の公開を困難にするだろう)という形で、この「折り合い」をはかるということ、当事者である刀匠の「心情」に配慮するということが、この人自身に対しても、フェアな態度と言えるだろうか?
ぼくが自分の書いたことに「パターナリズムの要素があった」と思うのは、この点に関わる。
この映画に出演したということ、その制作に関わったということに、この人の自由(と責任)はあったわけで、その自由を尊重するなら、むしろ映画を改編しないままで公開し、それにこの人からの批判・抗議を加えて(というか、すでに広く知られてるわけだが)、論議を広く展開していくことこそ、この人の現時点での言明や気持ちには沿わなくても、この人の存在を個人として尊重することになるのではないか。
そういう思いが、今のぼくにはある。


実際のところ、現在の日本の社会では「表現の自由」への圧迫は、今回の異議申し立てのような形をとって加えられることが多いだろう。
その場合、取材された側の「期待権」というような考えが拡大してしまえば、とくにドキュメンタリー映画などの場合には、公開が難しくなるケースがたくさん出てくるだろう。
これは、「表現の自由」を押さえ込む格好の武器になりうるものだ。


その際、こうした傾向を助長する力となりうるのは、ぼくの考えに含まれていたようなパターナリズムの要素ではないかと思う。
その人の意志や心情を尊重するという場合に、そのことのなかに自分にとって都合のよい別のものの擁護という思惑を密かに持ち込まないで、その人自身の存在と向き合っていくという態度は、難しいことだが大切なのだと思う。