『パッチギ!』  


評判の高かった映画『パッチギ!』をやっと見た。


友だちや知人や、何人もの人から進められていたのだが、見る機会がなかった。まだ上映の続いていることを先日、ある人から教えてもらい、やっと足を運んだのだ。
本でもそうだが、ぼくは他人が誉めているものを見たり読んだりするのに抵抗がある。困ったものである。

賛辞

この映画は、たしかに秀作だ。
ぼくは井筒さんという人の映画もあまり見たことがなく、誤解していたのだが、もっと主張の激しい、勢いのある派手な映画かと思っていた。
意外にも、しっとりと落ち着いた映画である。押し付けるところがなく、淡々とした日々の出来事の描写を重ねて、静かに観客の心に訴え染み込んでいこうとする。その点、見事な出来ばえである。「暴力シーン」と呼ばれているものについても、コメディー調で描かれているので、怖い感じはあまりない。
難しい題材であるにも関わらず、年配の人や、若い人、幅広い年齢層に支持された理由が、よく分かる気がした。
京都っぽいというのか、アジアっぽいというのか。


こうした映画全体の雰囲気を象徴しているのが、脇役だが、オダギリジョーの好演である。この作品の彼は素晴らしい。ぼくはあまり映画を見る方ではなく、そんなに知らないのだが、『アカルイミライ』や『血と骨』のときと比較しても、ぼくは今回が一番いいと思う。
「自然体」ということでもなく、主張の強くない、それでいて譲らないところのある優しい印象の青年を、見事に作り上げ演じていた。本当に京都にいそうだもの、あんな兄ちゃん。ジュリーっぽくもあるし、森毅の若い頃みたいでもある。正直『血と骨』のときには耳についた、彼のぎこちない関西弁も、今回はほとんど気にならなかった。


言葉のことを言うと、この映画の成功の大きな要因のひとつは、その関西弁の正確さにあると思う。関西以外の地域の出身という設定だと思われる何人かを除いて、ほとんどの登場人物の関西弁と、朝鮮語の関西風のイントネーションは、完璧であった。
作り事でないという感じ、いや、ちゃんとした作り事であるという感じが、そこに集約されてあらわれている。
この映画のように、淡々とした流れのなかに観客を引き込もうとする作品の場合には、この言葉の要素は、たいへん大事なものであると思う。


他に俳優について述べると、この作品の成功の最大の功労者かもしれない笹野高史の熱演は別にして、オダギリ以外では、高校教師役の光石研も、いい味を出していたと思う。あの人物をもっと見てみたい気もした。
それから、ほんとに小さな役だが、主人公の康介の母親を演じた余貴美子。泥酔した康介を送ってきたキョンジャたちに、排除的な素振りを見せて傷つける難しい役だが、すごく抑えた芝居をしていた。あれは、逆によかったと思う。民族差別的な感情と、息子のガールフレンドらしき若い娘に対する母親の対抗心、警戒心の混然と交じり合った感じが、よく出ていた。
あと、役者の名前が分からないんだけど、キョンジャの母親がやっているホルモン焼き屋で、七輪の前に座って一人で肉を焼いていた松本竜介みたいな色の白いおじさん。あの人は、ほんとに居そうだ。まさか、竜介じゃないよね?
若い役者では、高岡蒼佑楊原京子が目立った。
それと、キョンジャ役の沢尻エリカは、朝鮮学校の制服を来て坂を下りてくるファーストショットが確かに圧倒的にきれいなのだが、ぼくは個人的には、その先輩で看護婦になって最後に飛び蹴りをやる女の子(真木よう子)も、悪くないと思う。趣味の問題だが。


内容に関係ないが、ここで題名の「パッチギ」という言葉について書くと、ぼくは朝鮮語を数年間習ってたことがあるんだけど意味が分からなかった。そこで、小学館から出ている『朝鮮語辞典』を引くと・・・、出てました。

頭突き;鉢合わせ, ぶつかること.

なるほど。井筒さんもインタビューで言ってたけど、「ぶつかり合うことからはじめて、理解しあおう」みたいなメッセージが込められてる題なんだろうね。

疑問点

さて、このように非常によくできた映画なのだが、ぼくには不満というか、ちょっと首を傾げる点もあった。
クライマックスの場面に向かって、ひとつひとつの挿話が十分に描かれていないのではないか、と思える点があったのだ。これは、もしかするとぼくがちゃんと見られていないだけなのかもしれないが、気になったので書いておく。
具体的に言うと、あの葬式の場面で、朝鮮人の老人を演じる笹野高史の熱演から、朝鮮人の若者たちが自分たちなりの弔いとして喧嘩に出かけていく場面、キョンジャが外に出て涙ぐむシーンが続き、そこから橋の上で康介がギターを叩き壊す非常に重要な場面につながっていく。ここまではいい。さまざまな登場人物の感情が、国籍や民族や性差や世代差をはらんで交錯する様が、よく描き出されていたと思う。
ところが、この後ラジオ局のシーンになり、大友康平がイライラしているシーン、ここがはじめ何なのか、ぼくにはピンとこなかった。結局これは番組に出演する予定だった康介を待っていて、康介は橋の上でギターを壊してしまったために無伴奏で歌うことになるという顛末が分かってくるのだが、その事情の説明が不十分だったのではないか。一体どういう事情で、康介はここに来て歌うことになったのか、それについてどんな葛藤があったのか、ぼくは見ていてよく分からなかった。
なので、ここは大事なエピソードなのに、どうも付け焼刃の印象を受けた。
そう思い出すと一事が万事で、そういう描きこみの「薄さ」が節々にあったような気がしてくる。
ぼくは、時々スクリーンを見ながら他のことを考えてしまうたちなので、上記のことも、ちゃんとした説明があったのかもしれないが、ぼくの頭には入らなかった。
そのことが、不満だというよりも、自分のなかで引っかかるのだ。


映画が感動的ならそれでいいじゃないか、と思われるだろうが、そうではないと思う。
感動がもたらされるまでの過程が、どれだけしっかり作りこまれているかは、たいへん大事なことだ。その過程を通して、作品は、人間の心を作っていくと考えられるからだ。そこを、「流して」しまってはまずいだろう。文化というのは、そういうものだと思う。
だから、もしぼくの見落としでないとしたら、この映画には脚本や構成の点で、改良しなければいけない点があることになる。積み上げるべきものが、きちんと積み上げられていない点が、この映画にはあるのではないか。
このことについて、もっと書こうと思ったが、あやふやな部分もあり、見当違いのことを書いて井筒監督にパッチギされるのも怖いので、やめにした。
まだ見ていない方は、映画館やDVDでご自分で確かめてみてください。