ホシノ・リナ監督来京と作品上映に関連して

はじめに、近日のエントリー、3月5日の『それでもボクはやってない』と、3月12日の『「反ファシズム戦争」の論理を越えて』に、それぞれ以下のトラックバックを寄せていただきました。

http://d.hatena.ne.jp/Yuny/20070314

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070314/p1(『相殺の論理と普遍性の論理』)


どうもありがとうございます。
また、最近の記事にコメント欄やブックマークでも色々とコメントをいただくなどしていて、とても励みになっています。


さて、今日の本題ですが・・・


『関西クィア映画祭』のプレ企画として、ホシノ・リナ監督が京都に来られ、作品の上映と「お話しする会」が行なわれるそうです。
ぼくは、『Caught in Between〜「故郷(くに)」を失った人々の物語〜』という作品を、三年前に京都の精華大学で見て、同監督のお話を聞く機会があり、深い感銘をうけました。
今回上映される他の作品は未見ですが、ぜひ多くの方々に、作品を見て、監督と話をする機会をもっていただきたいと思います。
以下に、某MLより、案内の文章を転載します。
また、三年前に書いた自分の感想文(私的にあるところに公表したもの)を、末尾にあわせて載せておきますので、よかったら読んでください(なお、この文中にある、別の監督によるもう一本の映画の方は、今回は上映されないようです)。


(以下転載)

■■■【関西クィア映画祭 今年も7月に梅田HEP HALLで開催!】■■■

関西クィア映画祭2007 プレ企画第2弾!
「ホシノ・リナ監督作品上映会&お話しする会」

●日時:2007/3/26(月)18:20開場、18:30開演
 (平日です。お間違えのないよう!)
●場所:ひと・まち交流会館 京都(河原町五条下ル)
●費用:500円(お茶付き)

●上映作品
『Caught in Between〜「故郷(くに)」を失った人々の物語〜』
『In God's House
 〜キリスト教会におけるアジア系米国人レズビアン・ゲイと家族〜』
『San Francisco Chinese New Year Parade February 2006
 〜チャイニーズ・ニューイヤー・パレード2006〜』

ホシノ監督が来京されます。
映画の上映後、ホシノ監督との意見交換、
また参加者同士の交流の場を設けます。
お茶を飲みながら、
監督を交えて上映作品について気軽におしゃべりしませんか?

■監督:リナ・ホシノ(Lina Hoshino)
ドキュメンタリー映像作家、デザイナー。93年からビデオ作品制作開始。
97年『Story of Margo』東京ビデオフェスティバル入賞。
04年制作『Caught in Between』は、日本、米国、カナダなどで上映され
07年日本アムネスティ・フィルム・フェスティバルに出品された。

【作品概要】
■『Caught in Between〜「故郷(くに)」を失った人々の物語〜』
(2004年制作/25分/英語、字幕:日本語)
 米国では2001年9月11日の同時多発攻撃以降、攻撃とは無関係の
米国在住のイスラム系米国人への差別被害が深刻化した。63年前、
真珠湾攻撃直後に同様のバッシングを受け、強制収容所へ連行された
体験を持つ日系コミュニティーは、自分たちの体験を重ね合わせ、イ
スラム系米国人の自由と人権を求め立ち上がる。
 二つのコミュニティーは、第二次大戦中の日系米国人強制収容所
共に再訪し、日系コミュニティーが被ったような悲劇がイスラム系米
国人に対し再び起きてはならないとの決意を新たにする。
(HPアドレス:http://www.caughtinbetween.org/

■『In God's House
  〜キリスト教会におけるアジア系米国人レズビアン・ゲイと家族〜』
(2006年制作/23分/英語、字幕:日本語)
 米国に暮らすアジア系米国人でクリスチャンのレズビアンやゲイた
ちは「神の家」である教会内において長い間ほぼ不可視の存在であった。
一部のアジア系教会では、争いや分裂を恐れ、沈黙を守っていた。一
方、ホモセクシュアリティを非難し、同性婚について公的に異議を唱
える教会指導者たちもいた。
 しかし、教会がどのような態度を取ろうと、レズビアン・ゲイやそ
の家族は、毎日教会で礼拝を受けている。この作品は、クリスチャン
レズビアンのアジア系米国人女性の語りを中心に、親の葛藤や教会
のあり方を描いている。教会との間に、寛容と受諾に向うための対話
が生まれるかもしれないという小さな希望の中で、痛みを伴いながら
も沈黙を破る人々の物語である。
(HP:http://www.ingodshouse.com/

■『San Francisco Chinese New Year Parade February 2006
  〜チャイニーズ・ニューイヤー・パレード2006〜』
(2006年制作/8分/英語、字幕:日本語)
 毎年2月サンフランシスコでは、中国系移民の人びとが中国の新年
を祝うニューイヤー・パレードを行っている。2006年2月、このパレ
ードにアジア系キリスト団体がアジア系同性愛者連盟の山車と共に史
上初めて参加した。


■主 催:関西クィア映画祭+京都★ヘンナニジイロ祭
■H P:http://kansai-qff.org/
■連絡先:メール20070326@kansai-qff.org 電話080-3820-2731
■協 力:連連影展FAV

■■■【関西クィア映画祭 今年も7月に梅田HEP HALLで開催!】■■■

【今後の予定】
3/26(月)「ホシノ・リナ監督作品上映会&お話しする会」
4/14(土)<Queerなら?>(古書喫茶「ちちろ」・奈良市内)
6/2(土)「ジェンダーフリーじゃ、ものたりない!?
      トランスジェンダー映画から性別を濃ゆ〜く考える」
      (大阪・ドーンセンター)
7月 関西クィア映画祭 本番(大阪・HEP HALL

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●関西Queer Film Festivalって?
 国内、アジア、世界のクィア作品を関西で上映しよう!
 という趣旨で2005年から始まった映画祭です。
 去年はのべ1600名以上の方にお越しいただき、
 好評を博しました。
 3度目の今年も、HEP HALLにて7月開催決定!

Queerクィア)とは?
 クィアとは英語で「変態」のこと。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、
 トランスジェンダーなど、性と性的指向の領域で「ふつう」ではないと考え
 られている人々が、差別的なクィアという言葉を逆手にとって自称すること
 で、自らの立場をポジティブに捉え直す意味を持ちます。

●映画祭公式サイト
http://kansai-qff.org/
●ブログ 映画祭の作り方
http://blog.livedoor.jp/kansai_qff/
●あなたも上映会をしてみませんか?字幕貸し出ししてます☆
http://kansai-qff.org/jimaku/sakuhin/


■■■【関西クィア映画祭 今年も7月に梅田HEP HALLで開催!】■■■


(転載ここまで)



以下は、ブログの書き手が三年前に書いた文章です。



追記:いま自分の文章を読み直すと、ホシノ・リナ監督の個人的な背景(ご両親の出身のこと)についてよく考えないまま、「日系人」ということだけに注目して話を書いてます。
あまりよくないですね・・。

            『「しかたない」と友の沈黙』


11月16日、京都精華大で、二本のドキュメンタリーフィルムの上映と製作者たちの講演を見聞した。
フィルムの一本は、日系アメリカ人とイスラムアメリカ人との戦時(第二次大戦時と現在)における受難と連帯を描いた『「故郷」を失った人々の物語 Caught in Between』。
もう一本は、第二次大戦時、アメリカ政府が日本との「人質交換」の要員として強制的に日系ペルー人を連行し、戦後も「不法滞在者」として扱うなどひどい処置を行い続けたという、ショッキングな事実を題材とした『隠された強制収容所 Hidden Internment: The Art Shibayama Story』。


講演は、前者の製作者・監督のリナ・ホシノさん(日本人の父親と台湾人の母親を持つ、サンフランシスコ在住のデザイナー)や、後者の監督であるケーシー・ピークさんをはじめ、映画に関係するイスラム系、日系アメリカ人の人たちが登場し、会場との質疑応答形式で進められた。


二本の作品は、どちらも衝撃的な内容だったが、ぼくは特に、前者の作品に感銘を受けた。
この映画では、現在アメリカ社会で迫害を受けているイスラム系の人たちに対して、かつて第二次大戦時に強制収容所に入れられるなど、同じく苦難の経験をした日系人たちが、連帯を表明する姿が描かれている。
この映画の最後で、両親や祖父母たちの苦難の体験を大事にする若い日系の女性が、「だからこそ今はリスクの少ない存在である私たちが、彼ら(イスラム系の人たち)を守らなくてはならない」と言う。
また、実際に大戦時の迫害を経験した日系の女性は、「自分はアメリカ市民であることにも、日本の出身であることにも誇りを持ったことはない」と語り、「自分が何者かと聞かれたら、「ただの人間」と答えましょうか。もっと公平で調和のとれた世界をのぞむ・・・」とまで言い切る。そして、イスラム系の人たちへの迫害という形で、あの悲劇を繰り返させてはならないと、聴衆に呼びかけるのだ。


こうした姿を見ていて感じたのは、この人たちは、「われわれ」とは異質な体験をしてきた「他者」なのだ、という思いだった。
ぼくは正直、これまで日本国内で「日系人の苦難の物語」が美談のようにして語られるのを、ひどく冷淡な気持ちで眺めてきた。というのは、日本という国がいまだ極めて排他的な国であるのに、それを直視しないままに自分たちの同一性を確認し美化しようとする物語に、日本に住む日本人自身が酔っているように思え、嫌悪感をおぼえたからだ。
この感じ方自体は、今も変わらないが、ぼくが今回申し訳なく思ったのは、そうした「作られたイメージ」のなかの日系の人たちと、実在の、大変な苦労をされてきた日系の人たちとを混同していたということだ。イメージ操作を憎むあまり、ぼくは実在の日系の人たちを見ようとせず、彼らにまで冷ややかな気持ちを向けていたのだ(考えてみると、これも権力が仕組む分断のためのイメージ操作の、別様の成果であるのかもしれない)。
今回感じたのは、彼らがアメリカの社会の中でマイノリティーとして大きな苦難の中で生きてきたという現実の重さであり、そうだからこそ、彼らは迫害されるイスラム系の人たちに今連帯しようとするのだろう。
日系アメリカ人の体験は、日本社会のマジョリティであるぼくにとって、まったく「他者」の体験であり、それは「民族的同一性」ということには回収できないものだった。


ただし、ここで「民族」という言葉を(それを民族としての「日本人」と置き換えてもよいが)、ぼくは一般的なものとしては使っていない。というのは、ぼく自身の感覚として、「日本人」や「日本民族」という枠組みは自前のものではなく、近代国家によって押し付けられたものだと思っているからだ。「民族」という枠組みが、必ず近代国家によって押し付けられるものなのか、それともこの「嘘っぽさ」は日本に特有のものなのか、ぼくにはよく分からない。ただ言えるのは、「日本人」という枠組みは、ぼくの自前の枠組みでなく、したがってアイデンティティの基盤にはならないということだ。
この感覚は、日系人の方たちの多くには理解しがたいものかもしれないが。
ではところで、自前の枠組みとして、どういうものをぼくが望むかというと、難しいところだ。それは「民族的に多様なルーツを持つ日本人」(網野善彦が構想したような)という像であろうか、それともあの日系のおばあさんが言っていたように、何人でもない「ただの人間」ということなのか。


ともあれ、政府やメディアによる政治目的でのイメージ操作が人と人とを分断し、憎しみを意図的に増幅させるという現在の社会のメカニズム(講演者たちが、最も強く強調していたのはこれだったと思う)から逃れるためには、自分自身のなかにあった「日系人」というイメージの支配(実在の日系人を見えなくする)にぼくが気付いて、エスニシティとは別の次元で、尊敬すべき「他者」である日系アメリカ人の人たちを発見したことは、大きな経験だった。
もう一本の作品において、日系ペルー人のアメリカによる強制的な連行というショッキングな事実を、ぼくははじめて知ったのだけれども、イメージのなかで出来事と人々を捉えていなかったという意味では、ぼくは日系アメリカ人の歴史についても、今日「はじめて知った」のだ。


この、マイノリティとしての体験をしてきた日系アメリカ人たちが、今は同じ苦難を経てきた者としてイスラム系の人たちに「連帯」を表明したのである。リナさんも言っていたが、「リスクの少ない存在」とは言っても、いまだ日系人アメリカ社会でマイノリティであることに変わりはない。戦時下である今のアメリカで、彼女たちがイスラム系の人たちに連帯を表明することは、本当に勇気のいることなのだ。
それでも立ち上がろうとする彼女たちの姿に、大きな感銘を受けずにはおれない。
映画の最後に映し出される、「最終的に(傷跡のように)残るのは敵の言葉ではなく、友の沈黙である」というキング牧師の言葉を、ぼくは、ぼくたちすべてに対する重いメッセージとして受け止めた。


終わりにもうひとつ、映画のなかで、収容所に入れられていた人たちの悲しみと苦しさを歌った英語の歌のなかで、日系の子どもたちが当時口癖のように「仕方ない」と言っていたという歌詞が心に残った。
英語の歌詞のなかに、そこだけ「しかたない」という日本語の単語が歌われるのだ。
ぼくは、そこに当時の人たちのどうしようもない苦しみを感じると共に、この「しかたない」という単語を国語の常用句として作り出した近代日本の国家のあり方を、垣間見る気がした。「しかたない」は、今現在なお、ぼくたちの心とこの社会を、厚い雲のように覆ってはいないだろうか。
この言葉を、上の現在の日系の人たちの力強い言葉と比べるときに、マジョリティとしての日本人と、マイノリティとしての「日本人」が生きた、大戦後60年の歴史の差異が見えてくるのかもしれない。

                               
                                 2004年11月17日