「揺れる朝鮮学校」を見て

NHKの関西ローカルの番組、「かんさい熱視線」で放送された「揺れる朝鮮学校」を見た。

http://www.nhk.or.jp/osaka/program/nessisen/


街角で罵声を浴びせられたり、暴力に脅かされることが日常のようになっている、朝鮮学校の生徒達の現実。
そこに決定的な追い討ちをかけるような、国による「無償化外し」や、大阪府などの自治体による理不尽な補助金の打ち切り、停止。
差別と暴力がまかりとおる日本の社会の現実を、あらためて実感せざるをえない。
インタビューに答えていた生徒たちは、こうした現実のなかでも、在日という自分の位置を肯定的に捉えて、日本とアジアとの架け橋のような存在として、日本社会(世界でもよいが)のなかで活躍していきたいという抱負を語っていたと思う。
そういう、社会に参加して良き変化に献身しようという若者の希望や意欲を、社会自らが総がかりで押し潰してしまおうとするような、この国の姿はいったい何なのかという気持ちが、見ていて込み上げてきた。
この自分たちの国の醜い現実を認めるところからしか、社会の再生というものはありえないだろう。


また、もうひとつ感じたことは、日本の国と社会は、近年の差別や制度的・私的な暴力の洪水によって、朝鮮学校が時代の移り変りのなかで実践しようとしていた変化の可能性を、決定的に阻害してしまったのではないか、ということである。
朝鮮学校は、自らの力と意志によって、変わろうとしていたが、その可能性を、日本の国や社会は阻み、歪めてしまった。
この変化とは、もちろん日本の社会に迎合するというようなことではなく、自ら生きようとする力そのものだといってもいい。
人々の、とりわけ学生たち、子どもたちの、そういう自由で自立的な生の可能性を、われわれの社会は否定しようとし続けているのだ。
この同じ否定が、すべての子どもたちにも向けられないはずはないと、ぼくは思う。


だが、自らの意志で変容し、時代のなかで自らの道を切り開いていこうとする人々の力を押さえこみ(剥奪し)、その変化を不可能にしてしまうことは、全ての差別や暴力や抑圧の本質であると同時に(だからわれわれ個々にとっても無縁なものだとは言えないと同時に)、とりわけ植民地主義的な権力の特徴でもあるだろう。
それは、近代以降、日本という国が、朝鮮半島に対して行ってきたこと、そのものでもある。
そう考えれば、いま朝鮮学校の生徒たちに加えられている暴力や圧迫は、われわれの社会が、ずっと本質として持ってきたものであり、また歴史のなかで確かに行使し続けてきたものだということに、気づかざるをえない。
この暴力が、朝鮮に出自を持つ人たちばかりでなく、われわれの多くにも同様に差し向けられたものであることは、今では少なからぬ人が実感しているはずだ。