平澤・とりあえずの感想

毎日平澤のことを書いているが、正直言うと、一番感じていることは、たしかにひどいことが起こったと思うのだが、恐怖や怒りのようなはっきりした感情が自分のなかに湧いてこないということである。
これは、原因がなんなのかは分からない。ともかく、おそらくこれはひどいことが起きた、それも自分に身近な場所で現実にいま起こっている、とは思う。そして、おそらくこの出来事が、今後韓国にも日本にもなにかの形で波及していくと思う。いや、ひどいことはすでにどこでも起こっているのだが、今回のことはそのなかの非常に見やすい実例である。そしてたしかに、象徴的であるだけでなく、具体的にも節目になるような出来事であるはずだ。
漠然とそう感じ、思っているのだが、現場を映した数多くの生々しい写真を見ても、自分のなかにはっきりした具体的な感情や判断は、生じてこないのである。
そのことを確認して、ともかくいま知っていることや考えられること、かすかに感じられることなどを、できるだけここに記していこうと思う。


今回の大規模な衝突、というよりも警察による大量連行と拘束、そして警察及び軍による民間人への激しい暴力の行使という事態は、実際には何重にも重なった暴力の尖端の姿のようなものである。
それはまず韓国に、そして平澤近くの土地にすでに米軍基地が存在しているということ、このこと自体の暴力性がある。日本とは同盟関係の質が異なる韓国では、過去に膨大な数の米兵による暴力事件がおきてきた。もちろん、梅香里に代表されるような騒音や環境破壊といったことがあり、「基地村」の存在など基地が生み出してきた深刻で回復不能なほどの被害と影響とものがある。そして、韓国で訓練した米軍の部隊が、中東などの戦地に行って戦闘行為をおこなっているという現実がある。つまり、戦争とその訓練という意味でも、犯罪や人間と環境への深い影響・加害という意味でも、ここにはうたがうことのできない暴力性が存在する。
そもそも、なぜ韓国にこのような状況があるのかという歴史的な条件を問いはじめれば、ここにもっと根本的な暴力性が見出せることは言うまでもないが。
次に米軍再編の過程のなかで、平澤という土地における基地の拡張が、多くの住民の同意をえないままに拙速に決められたということ。つまり、行政のレベルでの暴力性といえるものが存在したことが、住民たちの怒りを呼んだ。ここでも、もともとこの土地に基地が置かれたときからの苦渋の歴史というものが、この土地にはあった。
この背景にはまた、米軍(アメリカ)が現在世界規模でおこなっている大規模な軍事力の展開、という現実がある。そのなかで、平澤の住民たちは、再び故郷の土地を追われるという苦境に立たされたのだ。
そして、数ヶ月にわたる圧力と抵抗、小競り合いが繰り返された後に、今回の大規模な実力行使が、警察と軍によっておこなわれた。


現在、政権や軍、そしてそれらを支持するマスコミが主張するのは、今回の行動が外部からやってきた一部の政治団体などの扇動によるものであり、地元の住民はそれに利用されたにすぎず、実際には地元住民はほとんど積極的な行動には加わってはいない、というものだ。
ここでは明らかに、ここにいたるまでの間に何重にも折り重ねられた暴力性が棚上げにされ、不問に付され、ひじょうに表面的なところでの真偽をめぐる応酬に議論がすりかえられている。
これは、批判している「守旧メディア」だけではなく、住民たちの行動を形の上では擁護しているオーマイニュースなどのメディアの側も、この「すりかえ」を容認し、乗ってしまっているような感じをうける。じつはこれが、非常に気になる点である。
はっきり言えば、「守旧メディア」も市民メディアの側も、大きなものを守ろうとしている。それはなんだろうか。


ひとつ考えられることは、今回の行動の先にあるものが、韓国内では今後激化が予想される反FTA運動などの、現政権の経済政策に対抗する農民や貧しい人たちの「実力行使」への弾圧の先鞭を開くものになるだろう、ということだ。
政府としても、守旧メディアの背後にある勢力にしても、また軍や警察にとっても、このことが重要だったのではないかと思う。
今回の事態が、「地元の農民たちの戦い」ではなく、「外部の勢力の扇動によるもの」と位置づけられる必要があったのは、今後起こるであろう農民などによる大規模な抗議の行動を、多くの韓国の人たちに支持されるナショナリズム(農民蜂起)の歴史的なイメージと文脈から切り離すようにするための、予防的な言論戦だったのではないだろうか。
この意味では、現在の政権やそれを支持する多くの市民メディアと、「守旧メディア」の背後にある勢力とは、利害が一致しているのかもしれない。
現在の状況で、「外部の勢力」といわれる場合の含みは、「南北対立」が統制の主な道具とされたかつてとは異なり、おそらく端的に国際的な反グローバリズム運動のようなものをさしているのではないかと思う(言うまでもなく、これは日本の法的状況を考える場合にも重要である。多くの国の政治権力にとって取締りの対象として今日もっとも関心があるのは、こうした「国際的な」動きだろう)。
そうした「外部勢力」による国民の扇動を許さないというメッセージを政府が発することによって、農民や貧しい人たちの抵抗は「反国民的(反市民的)」なものとして囲い込まれていく。そういうシナリオになっている気がする。


もうひとつ、「地元の住民は参加していない」ということと、「参加していたにしても
外部の政治勢力との関わりをもつものだけだ」といったレトリックは、おそらく今後日本のなかでも多く用いられるようになる。そのはっきり予見できる例は、大量の検挙者が出た場合の辺野古だ。
「この抵抗は自然なものではない」といったレトリックが、超法規的ともいえるような警察や国の行動を隠蔽(棚上げ)し、抵抗を多くの人々に無縁の特殊なものと感じさせるために動員されるのではないだろうか。


「外部勢力」が存在していようと、いなかろうと、とにかく農地は奪われた。
ソウルでの抗議集会の様子を伝えるオーマイニュースの記事。
http://www.ohmynews.com/articleview/article_view.asp?at_code=329566

一方、ソウルろうそく文化祭の参加者たちは、夜九時半頃、歌手の鄭泰春氏がつくった「コウノトリたちの歌」を合唱しながら文化祭を終えた。