「秘密」の話

先日ハンドルネームに関して書いた文章のなかで、「秘密」と構成力、それに市民社会の独立性といったようなことを書いた。これは非常に重要なテーマだとおもうのだが、それに関連して思い出す小説があるので、そのことを少し書いておきたい。


その小説というのは、カフカの長編『審判』だ。この作品は『訴訟』とも訳されている。どうもこの方が原語の意味には近いらしい。
もちろん非常に有名な小説で、何度か舞台になったり映画化もされている。映画はオーソン・ウェルズ監督、アンソニー・パーキンス主演のものが有名だ。日本でのはじめての舞台化では、いまは声優の野沢那智が主演を努めたときく。1960年代の話で、そうかんがえると野沢那智も歳なんだなあ。また、フランスで舞台化されたときには、映画監督のロマン・ポランスキーが主役を演じたことがあるらしい。
それほどメジャーな小説なのだが、長いし題材も重そうなので、意外と読んでいない人が多いかもしれない。じつは、ぼくも全編を読み通したのは、わりと最近のことだ。
読んでみるとじつに面白い小説である。

Kという名前の主人公が、ある朝起き抜けに理由の分からないことで逮捕される。逮捕といっても、身柄を拘束されたりするわけではない。二、三人の男が部屋にたずねてきて、なにか公的な権力らしきものから訴追されたと告げられるのである。この権力が、どんなものなのかがよく分からない。
独身の銀行員であるKは、それまでどおりの日常生活を続けるのだが、周囲の人の話を聞くと、どうもこの「訴訟」は重大な結果を招きかねないもののようであるので、放置するわけにもいかず、呼び出された時日に「裁判所」に出向いて審理を受けたり、裁判所に対する「コネ」を頼ってさまざまな人物と接触を持とうとする。このじつにとらえどころのない、ややこしい過程を描いているのが、この小説の面白さである。だが「訴訟」をなんとか切り抜けようとする全ての努力は徒労におわり、ある夜再びたずねてきたフロックコート姿の二人の男によって、Kは石切り場で「犬のように」殺される。


まあ、そういう小説なのだが、読んでみると「暗い」とか「重い」という感じをあまり受けない。「訴訟」も「裁判所」の仕組み全体も謎に包まれていて、ミステリーのように読める。というより、何が象徴されているのか、意味されているのかを、特定できない面白さがある。
カフカの小説には、みなこの特徴があって、さまざまな解釈を許し誘うことによって、結果的にはあらゆる解釈を脱臼させ、拒むような構造を作っているようだ。
ドゥルーズ=ガタリは、これを「リゾーム」と呼んだ。
繊細で猜疑心の強い小動物のような周到さによってはりめぐらされた防御の仕組みのようなもので、いたるところに「解釈者」たちを誤謬に陥らせ挫折させるための罠が仕掛けられている。
こうしたカフカの作品観が語られるのは、晩年の作品『巣穴』の影響が大きいのだが、じつはこの小説自体がひとつの「罠」なのかもしれない。じっさい、『巣穴』の冒頭にそれを匂わせることが書いてあるが、これもまた罠かも知れず・・・・。


『審判』に戻ると、この小説の第9章「大伽藍にて」が、まさにこの解釈のテーマを扱っていて非常に面白いのだが、ここではそれにふれない。
Kは、最初のうちは裁判所の不当さや、その腐敗しているらしい構造に腹を立てて抵抗しようとするのだが、とにかくさしあたっては日常生活に大きな差しさわりがあるわけでもないし、どこをどう押せばいいのかつかみどころがないままに永遠に続くのではないかとおもわれる「訴訟」の過程そのものに、Kは次第に疲労困憊していく。
この、永遠に続く日常と一体化した見えない権力を前にしての主人公の「疲労困憊」を描く筆が、もうひとつの巨大な長編『城』にも見られるように、カフカの長編の真骨頂だともいえる。
この「疲労」のなかでKは、「裁判所」への批判や正面からの対決を断念し、「コネ」を頼ったり、訴訟や「裁判所」の仕組みがどうなっているかを知るために、裁判所の内情に詳しい人たちに接触を図ったりする。つまり、権力とその現状(腐敗)に対してある程度の折り合いをつけようとしはじめるのである。
「裁判所」の現状を変革したり、不当で理由の分からない訴訟をたたかって「無罪判決」を勝ち取ろうという意欲を次第に失って、権力が強いる日常的な不安や煩雑さとともに生きる道に進もうとするかのようにも見える。
カフカの小説が反動的だといわれる由縁であるが、読んでいてここが非常に面白い。


ところで、今日書きたかったのは、第8章に出てくる商人ブロックの台詞についてなのだ。
商人ブロックは、訴訟に重大な力を行使できるとされる、ある「弁護士」の家でKと出会い、訊かれるままに彼に訴訟や「裁判所」についての忠告を与えるのだが、その会話のなかで、「弁護士」に告げ口されては困るような事柄をKに語るに際して、次のような交換条件を出す。
このやりとりがまた、ぼくにはたいへん興味深くおもえるのである。

「それはまたどうしてです?」とKはたずねた。「どうしてもお聞きになりたいですか?」と商人はためらうように言った。「別にかまわないでしょう」とKが言うと、仕方なさそうに、「それではお話しましょう。ただし、一部分だけです。それから、弁護士に対してなにも言わないという約束として、あなたもひとつ秘密をうちあけてくださらなければいけません。」(飯吉光夫訳 ちくま文庫版p209より)

つまりは、「秘密」を人質にだせということである。また、交渉の材料として小出しにして用いられようとしている。
ということは、「秘密」は、それを抱いている個人の内面から独立していて、「秘密」を抱くことを通して個人が社会や権力に支配され操作されるのを、免れうるということではないだろうか。ここでは個人が、「秘密」を所持しているのだとおもえる。
「秘密」というものに対するこのような感覚は、日本でも戦国時代などには普通にあったものだとおもうが、近世以後の日本ではすっかり忘れられてしまったようだ。日本の近代小説家で、こういうことを書く人というのは、ぼくには谷崎ぐらいしか思い浮かばない。
そのことが、この国の社会のあり方を、そうとう特殊なものにしてきたのではないかとおもう。
また、人のこころ、特に情緒の動き方を規定することになったのではないか。

審判 (ちくま文庫)

審判 (ちくま文庫)