サッカーと日本のプロ野球

先日書いたサッカーの試合の感想の最後に、名前を一回書いたら、「キーワード安英学」で検索して入ってこられた方が記録的な数にのぼった。管理者としては「さまさま」だが、『血と骨』のときの「田畑智子」以来の現象なので、他のところはどうかとおもって覗いてみると、あの日サッカーの事を書いた多くのブログで同じ状況になっていたらしい。
本人はきのう、テレビのニュースショーに出てるのを見たが、ぼくが言うのもなんだが、たしかになかなか男前である。「冬ソナ」的な人たちの層が動いているのだろうと推測するのだが、サッカーファンのサイトを見てみると、この選手の技術的な面を誉めている文章が多いので、きっと同性にも支持されるタイプなんだろうな。うらやましくなくはない。


しかし、冷静になってかんがえると、もしあの試合が引き分けで終わっていたら、こういうふうになっていただろうか。みんな勝ったことで、相手チームの選手をたたえたりする余裕が生まれたのではないだろうか(女性ファンは違うかもしれないが)。
日本のサッカーファンは度量が広い、とはおもわない。いや、サッカーファンは結構広いような気がするが、日本人一般はそんなに広くはないだろう。
ぼくは特に狭いが。
でも、人間て、そんなもんじゃないかなあ。


その証拠に、昨年五輪でオーストラリア代表として活躍した阪神のウイリアムスだが、日本チームを押さえ込んで以後、スポーツ紙であまりとりあげられなくなった。阪神ファンも、少し冷たいのではないか。


前に「不測の事態」ということを書いたが、引き分けのままで終わっていたら、これもどうなってたかちょっと分からない気がする。
国際的なメンツなど外交上のこともあるから、日本政府としても、決勝点が入ったときには正直ほっとしたのではないか。


話を戻すと、だいたいサッカーファンに比べて野球ファンは、ナショナルチームとクラブチームの違いということを、あまり理解していないのではないかとおもう。いや、違いが分からないのではなくて、帰属の複数性というものをあまりかんがえたことがないとおもうのだ。
自分の所属する国のナショナルチームをこてんぱんにやっつけた選手だからといって(ウィリアムスのことだが)、阪神のユニフォームを着たときに無視したり冷たくしたりすると、クラブチームの戦力を落とすことにつながる。
どんな「愛国者」でも、そこは割り切らなければだめなのだ。これは、政治信条の次元とはやや異なる「生きるための知恵」として、大事な感覚だ。やはり、サッカーファンは、そこがいくらか大人なのだろう。
この「クラブチーム」の思想というものは、ヨーロッパの社会が、ナショナルな枠組み一辺倒にならないために何百年もかけてかんがえだした仕組みなのだろう。その効用は、「ナショナル」という近代以後にあって圧倒的な支配力をもつ帰属の枠組みを、なんとか相対化することにあったとおもう。つまり、帰属の相対性ということ、言い換えれば帰属が複数的でありうる可能性をつねに個人に意識させることが、その要点なのだ。
そうしないと、色々やりにくいし、しんどいから。「市民の知恵」、「商売人の知恵」みたいなものであろう。


しかし、「クラブチーム」がそれ自体でナショナルな枠組みの力を弱めるというわけではない。ナショナリズムは、むしろクラブチームの存在によって強められさえする。じつはこれが、近代的な国家のメカニズムであろう。
資本の原理で動く「クラブチーム」と、ナショナリズムを原理とする「ナショナルチーム」は、じつは相補的なのである。
この辺は柄谷行人の受け売りっぽいが、あまりちゃんと読んでないのでまゆつば物だ。


日本のプロ野球のチームに、ナショナルな枠組みに対する緊張感はない。ナショナルチームと各クラブチームは、後者が前者に飲み込まれるようにして、すんなりと一体化してしまう。中畑など、その典型だろう。
その理由は、日本のプロ野球チームは、これまで、そういう西欧型の複数帰属による資本主義システムとはべつのところで行われてきたからであろう。戦前は、資本自体が国家との結びつきが非常に強い時期に、日本のプロ野球は生まれた。
何年に生まれてどんな時代だったのか、正確なところを調べれば説得力が増すのだろうが、どうせ思い付きを書いてるだけだから、こういうのは「だいたい」でいった方が面白い。
ウォルフレン・野口悠紀雄の「1940年体制」ではないが、戦後日本のプロ野球の経営は、この戦前の資本のあり方を基本的には踏襲したのだろう。ナショナルでないように見えて、じつは単一的なナショナルなシステムだったのだ。


飛躍して言えば、その弱さがシドニー五輪で露呈した。帰属の複数性によって鍛えられていないナショナルな集団や制度は、グローバルな場に出ると通用しがたい。
メジャーへの大量の選手移籍で、この点は改善されるであろうか。おそらく、加えて外国人選手の大量・無制限の導入が不可欠だろう。その道をとるかどうか。
とらなかったらどうなるだろう。野球もいつまでオリンピック種目かわからないそうだから、強いナショナルチームを作ることは断念して、閉じられた共同体のなかでやっていくというのもひとつの道だ。個人的には、それでいいような気もする。藤井寺球場も復活するかもしれない。
しかし、現状はどんどん動いている。いまさら「戻れる」かどうか。


いままでは日本のプロ野球も、真の「クラブチーム」を成立させるような世界資本主義の荒波の外にいることが許されたのだ。いまやそうはいかない。「ホリエモン」でなくても知っている。
サッカーのように、グローバルスタンダードに日本も入っていくか。
繰り返すが、こじんまりしたところでやっていくという道はあるとおもう。強いナショナルチームを作ることは、すっぱりあきらめてだ。しかしそれにしては、ナショナルな帰属の単一性への幻想が、依然として強すぎる。
帰属の複数性という感覚がないと、「こじんまりした」ところには向かえない。なぜなら、これまでぼくたちが「こじんまり」した場所と思い込んでいた場所、つまり甲子園や後楽園や大阪ドームというのは、じつはナショナルな、国家的な空間に他ならなかったからだ。それが「1940年体制」の意味だ。
「こじんまり」した場所は、そこに「戻る」のではなく、これから作り出していくしかない未知の空間でもある。必ずしも資本的でない、「クラブチーム」の本当のふるさと。


「ふるさとを創る」というと、なんだか竹下のようだが、「クラブチーム」はもともとそういうものだったのだろう。
グローバルなところに出るにしろ、「こじんまり」したところを選ぶにせよ、そうした空間、もうひとつの帰属の場所をしっかりと作り上げていく以外に、これから先の道はない気がする。
国の偉い人たちがどう考えてるかは知らない。


最後にもう一度、安英学選手のことを書くと、テレビの画面で見るところ、じつに純粋でまじめそうな好青年だった。しかし、あまりにも重いものを、この若いサッカー選手がひとりで背負っているとおもい、気の毒だった。
重すぎる。