「テロリズム」について

国会周辺での抗議行動やデモをテロリズムにたとえた、石破幹事長初め自民党関係者の発言は、当然ながら大きな非難を受けた。
昨日もこの件について少しふれたが、あらためて思うことを書いておこう。


テロリズム、テロリストという言葉は、歴史的にはさまざまな変遷があろうが、2001年のいわゆる9・11以後の国際社会では、いわば「われわれの敵」を意味する語として用いられてきたと思う。
社会から排除し、捕まえ、場合によってはその場で殺しても構わない人間、つまり法や人権の外にあるような人間を、国家や国家連合(世界新秩序)が指定し、そのように扱うことを正当化するための、問答無用の言葉として、「テロリズム」や「テロリスト」は使われ、定着してきたということである。
それは、アメリカによるアフガンやイラクへの侵攻・占領と深く結びついており、当時の小泉政権は、自衛隊を派兵するなど、それに積極的に協力した。
当時、小泉首相は、「テロ行為」という言葉の定義を聞かれて、明確に答えられなかったが、範囲を明確に定めない(定められない)概念であるというところに、この言葉のイデオロギー性というか、すさまじい政治的暴力としての性格が、よく示されているのではないかと思う。つまり、その内容(範囲)は、公権力だけがこれを恣意的に決定する、ということである。


いま強行採決されようとしている、特定秘密保護法が、「テロリズム」「テロリスト」という、国家権力にとってのマジックワードを創出した、このブッシュ・小泉時代の日米同盟の論理の延長上にあることは、明らかだと思う。
もちろん、この論理は、ひとり日米のみでなく、中国やロシアなど「世界新秩序」「テロとの戦い」を標榜した多くの国々の権力に共有されているものでもある。
いずれにせよ、「テロリズム」とか「テロリスト」という語を用いることで、人権や命を奪ってもよい人間、むしろそうすることが正義でさえあるような存在を、国家が恣意的に定めていくという発想が、特定秘密保護法という悪法が出てくる重要な土壌なのだ。
この法案が、ここまででたらめで、国家というよりも時の権力者たちの恣意を許す内容になっていることには、日本特有の条件をあれこれと考えなければならないだろうが、「テロ」という国際的に流通する言葉に関する面でいえば、こうしたここ十数年の歴史の文脈を忘れるわけにはいかないと思うのである。
実際、言うまでもなくこの法案は元々、日米の同盟関係の強化を、その主要な名目として提唱されたものである。


この法案に反対している人たちの多くは、いわゆる9・11以後の、この日米の動向に対して批判的だったはずだ。
そこにおいて両国政府や、「国際社会」によって使用される「テロリズム」という用法の非人道性についても、大きな危惧を抱いてきた人たちは、少なくないと思う。
それがいま、この法案に書き込まれており、政治家や官僚が用いている、このテロリズムという概念を、自明の前提であるかのように受けいれ、「自分たちの正当な抗議行動は、それには当たらない」という風に主張する。
そこに、別種の怖さを感じる。
あの時、それほどこだわったものも、時がたった今では自明のもののように受け入れてしまっているのなら、いまこだわって抵抗しているものの、法案が通って、時間がたてば、やはり「自明のこと」として受け入れてしまうのではないか?


しかも、これらの言葉には、収奪や抑圧や侵略に対する抵抗を、問答無用の一語のもとに、不正義として、「市民社会」や人類に対する犯罪行為として処断するという政治的機能がある。
それがどれほど巨大で凶悪な権力と暴力に対する、ぎりぎりの抵抗であっても、国家が「テロリズム」と名指せば、それは絶対的な悪とされるのだ。
つまり、これらの言葉自体に、すでに市民・民衆の抗議や抵抗への、公権力による抑圧を正当化するイデオロギーが込められていることも、確かなことだ。


この法案に反対する側が、「われわれの行為(デモなど)はテロではない」と言って、政府側・体制側の使う「テロ(リズム)」という言葉の用法を是認してしまうことは、この国家による人権否定、および抵抗権(抗議し、抵抗する権利)の剥奪という流れに、自ら乗ってしまうことになるのではないか。
国家が、不当で強大な権力と暴力によって、人の生命や生活を破壊しようとして迫ってきたとき、どこまでの抵抗が正当であり、人権の名の下に容認されるかを決めるのは、国家の恣意ではありえない。
テロリズム」という語の、特に今世紀に入ってから定着し、今の日本の政権もそれを踏襲している曖昧(不明確)でイデオロギー的な用法に従うことは、抵抗する側(民衆)が持つべき、その最低限の権利を手放すことにつながるだろう。


デモや抗議行動を「テロ」になぞらえ、自らの意に沿わないあり方については、「テロ」と指定することで公然たる弾圧の対象にすることを仄めかす権力者たちのやり方は、卑劣であり、旧来の、文字通りの意味での政治的テロル(恐怖)の手法と呼ぶべきものだから、それに反発して、自分たちはそのような「法や権利の外の存在ではない」と主張することは、もちろん正当なことではある。
だが、そもそも最大の政治的暴力は、こうした「法や権利の外の存在」が、公権力によって勝手に決められ、存立してしまうという自体そのものであり、このおぞましい暴力性は、政治や戦争に関する事柄ばかりでなく、日常を覆い、われわれの日々の暮らしの中にも浸透していることを、多くの人は認めざるを得ないのではないか。
そうした暴力の論理、つまりは強者による恣意的な人権の剥奪、攻撃性の動員、そして被害者や民衆による抵抗の「合法的な」抑圧といったものを許さないことが、政権のファシズム性にわれわれが抵抗し続けるための、真の拠り所であると思う。
われわれは、「デモはテロではない」と強調するのではなく、命を奪う国家や強者の横暴にたいする、虐げられた者の抗議と抵抗は常に正当であることを、主張するべきなのだ。