チェーホフと幻想

チェーホフの「中二階のある家」という短編は、神秘的な美しさをもっているが、ちょっと変わった小説でもある。

かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)

かわいい女・犬を連れた奥さん (新潮文庫)


あらすじ

語り手で主人公である「私」は風景画家で、田舎の地主の屋敷に間借りして無為な日々を過ごしていたが、あるとき、近くの屋敷で母親と一緒に暮らしている リーダ(リジア)とジェーニャ(ミシュス)という若い姉妹と知り合いになる。
リーダは貧しい人たちに医療や教育を施したり、その人たちのための募金を集めたり、地方議会を牛耳っている実力者を攻撃したりという、社会的な活動に専心している。一方、母親と仲の良いジェーニャは、何の気苦労もなく育ってきて、とても素直で純真であるが、「私と同じようにまったく無為の生活を送っていた」。
姉妹のもとをたびたび訪れるようになった「私」は、自分がリーダに嫌われていると感じる。

私はこの娘に好感を持たれていなかったのである。この娘が私を好かないのは、私が風景画家であって民衆の苦しみを表現するような絵を描かないこと、娘自身が固く信じていることにたいして私が一見無関心であることのためなのだった。(小笠原豊樹訳 新潮文庫版 p16)


小説ではここで、美しいが非常に厳しい性格をもったリーダの、「私」に対する嫌悪の感じを表現するのに、以前シベリア旅行中に出会ったという、馬に乗ったブリヤート人の若い娘の、彼を見る軽蔑の眼差しをたとえにあげているのが、強い効果をあげている。

もちろんリーダは、私にたいする嫌悪感を決して表面には出さなかったが、私はそれを感じとっていたから、テラスの下の段々に腰かけていても、なんとなく苛立たしく、医者でもないのに百姓の治療をするのはぺてんじゃないかとか、二千町歩の土地を持っていれば慈善家になるのもたやすいことだとか嫌味を言うのだった。(同上)


リーダは、生き生きとして信念にあふれているが、自己主張の強すぎるところがあり、母親や妹に対しては、絶対的な君主のような存在になっている。ある種の権力意識、支配欲の存在が、そこにうかがわれるのである。
一方で「私」は、芸術家である自分を素直に尊敬してくれるジェーニャと話したり、森や果樹園で一緒に過ごす時間を、とても楽しいと感じる。


だが要するに、「私」は、この二人の美しい娘を含む一家の生活や、その人たちと一緒に過ごす時間と周囲の自然、それらのすべてを、得がたいもの、ごく短い間恩寵のように与えられるが失われると二度と戻らないであろう幻のようなものと感じ、驚きとともに体験しているのである。
この短い作品のなかに度々、無為で退屈な日常のなかに思いもよらず到来した、この幻想的な日々の美しさへの驚きを示すパッセージがさしはさまれる。
たとえば、

『一瞬、私は幼い頃これと同じ光景を見たことがあるような気持になり、なんともいえぬ懐かしさに恍惚となった。(p9)』

『私たちは二人で散歩し、ジャムにする桜桃をもいだり、ボートを漕いだりしたが、桜桃をもごうとして跳び上がるとき、あるいはオールを操るとき、娘の幅の広い袖を通して細い弱々しい腕が見えるのだった。(p17)』

『こうした細かい事柄をなぜか私は一々記憶し懐かしんでいる。特に変ったことは何一つ起こらなかったのに、その日のことは今でもくっきりと覚えているのである。(p21)』

『この夜ヴォルチャニーノワ家をあとにするとき、私は長い長い無為の一日という印象を心に抱き、そしてまた、どんなに長かろうとこの世のすべてはいずれ終わるのだということを悲しくも意識していた。(p23)』


だがあるとき、リーダのなにげない言葉の中に、自分の社会的な問題への無関心さに対するあてこすりのようなものを感じて苛立った「私」は、とうとう感情を爆発させ、彼女の専心している社会的な活動がいかに無益なものであるかをとうとうと述べたてる。その言い分は、どう読んでも筋の通らない、いちゃもんのようなことである。
それを聞いたリーダも感情をたかぶらせ、諍いとなる。
この争いに「私」は疲弊するが、その様子を見てショックを受けた妹のジェーニャと言葉を交わすうちに、ジェーニャへの強い愛情が自分のなかに芽生えていることを自覚し、求愛する。

自分にも他人にも満足できず、苛立たしい気分のまま一人とり残されると思うと、私はそらおそろしくなってきた。私ももう流れ星を見ないようにしていた。
 「もう少し一緒にいて下さい」と私は言った。「お願いだから」(p36)


他人を攻撃することでしか心のなかの空虚をまぎらわせられない絶望的な孤独を、ジェーニャだけが癒してくれるように、「私」にはこのとき思われた。
自分にもこのように人を愛することが出来たということに「私」は喜びをおぼえるが、ジェーニャがそのことを姉に打ち明けると、別れることを強く命じられ、翌朝ジェーニャは遠い土地へと去ってしまう。
「私」の気持ちの高揚は一瞬で終わってしまい、再び退屈な日常が訪れる。
その後自分もその土地を離れた「私」は、数年後、風の噂でリーダが活動のなかで政治的な成功を収めていることを聞かされる。一方、ジェーニャについては何も分からない。

空虚を埋めようとする

ざっとこういう話である。
読み終わったとき、「私」の内面の葛藤、たぶん倫理的な後ろめたさのようなものへの否認がリーダへの感情的な攻撃を引き起こしていることは分かるが、そのリーダが妹の将来をエゴイスティックに支配する「悪玉」のようにしか書かれていないと感じ、違和感をもった。
つまり、社会的・政治的な運動に冷淡な態度をとっている男性が、厳しく社会的活動への信念にあふれているが過度に攻撃的でもある若い女性に対して加える「バッシング」の心理的な構図は正確だが、それにしてはこの女性の描き方が、あまりに批判的なものになっているように感じたのである。
これは、チェーホフ自身が、貧しい人の救済などの社会的活動にたいへん熱心な人だったことを考えると、余計に妙である。


だが、よく考えてみると、作者はリーダの社会的な行動のなかに、権力意識を見出していて、それを批判的に見ているのだ。この権力意識によって、彼女の家族や他人との関係、それにそのすぐれた社会的な行動は、悪い意味での政治的なもの、他人への支配と自他への抑圧に変質してしまう。
リーダはいわば「男性的」な権力意識を内面化することによって、男たちの態度と心理にある部分同一化してしまっているのである。この男性的(ファロス的)な論理への同一化ということに関連して、『否定的なもののもとへの滞留』のなかで、ジジェクはこう書いている。

<女性>とは男性の症候なのであり、ファロス享楽に従属している限りで彼女は、自らの要求の否認を要求するというヒステリーのゲームに囚われてしまっている。(酒井隆史田崎英明訳 ちくま学芸文庫版 p356〜357)


実際、この小説における「私」とリーダとの対立には、相互的なところがある。リーダも「私」と同様に、「空虚」を他人への攻撃性(権力欲)によって代行的に埋めようとしている。「私」もリーダも、こうした男性的なゲームの泥沼から逃れられていない。それは、ラカンが示唆したような(関係における)「女性的」なものの抑圧であり、その可能性を手放してしまうことである。
この小説では、すべての人物が、「空虚」(穴)を埋めようとする欲望によって、人生への抑圧をこうむる結果になっている。リーダ自身も、自分の人生に対して強い抑圧を加えていることが、いくつかの箇所からはっきり読みとれるのだ。


だが同時に、ここで抑圧されているものの実体は、「私」が理想的なものとして眼前に見ているジェーニャの像によって示されるものでもない。この像が、自分の「男」としての安定への願望によって作り出されたものであることを、「私」は自覚しているからだ。

この娘には人並みはずれた知性があるのではないかと密かに思い、その視野の広さに私は驚嘆していたのだったが、それはたぶんこの娘の考え方が、私を嫌っている厳しく美しいリーダの考え方とは違っていたためなのだろう。(p36〜37)


結局、「私」による社会運動への批判も、リーダのある種の権力欲も、「私」が思い描くジェーニャの優美な像も、なにか本質的なものを否認し、覆い隠すために生じていることなのだ。つまり、それらはすべてファロス的である。
この本質的なものとは、世界を統合できるような意味はなく、その空虚の上に立ってわれわれは行動し関係を作っていく以外ないという、不安に満ちた自覚である。
この空虚さ、不安に耐え切れないことから、人は他人を自分の「理想像」や「従属者」のように見なして扱おうとしたり、権力組織や命令によって自分の存在に偽りの安定を得ようとしたり、自分を倫理的・実存的に脅かす他人(他者)を不当に攻撃し排除することで不安を解消しようとする。

チェーホフの小説における「幻想」の役割

大事なのは、この「空虚」が否認されないような世界の像を直接提示することは出来ない、ということだ。ジジェクは、「空虚」を否認しない「女性的」な論理を形成するものを、「非在の無」と読んでいるが、「ここに無がある」と指差してしまえば、それは(無という名の)存在をひとつ数え上げるだけのことになるだろう。
チェーホフのやり方は、いたるところに「穴」があると書くのではなく、「穴」を覆っている土がかりそめのものだということを強調することだったと思う。この小説では、上に四箇所重ねて引用したような、幻想的な過去の人生の瞬間への「驚き」をこめた回想が、それにあたる。彼は、美しい人生の瞬間を描き、同時にそれがつかの間しか経験できないものであることを登場人物(語り手)が感じていることを書くことによって、われわれの人生のあらゆる瞬間が実は「幻想」によって満たされており、またそのことによって生き生きと実在するのだということを示すのである。
そうした物語を読むとき、われわれが感じるのは、幻想の充溢した幸福なイメージよりも、人生が空虚の上にしかありえないものだという冷徹な意識である。
だがそれは、人生や世界に対するシニカルな態度をもたらすことはない。「シニカルな態度」とは、人生を嘲笑しうるような位置が安定したものとしてありうるという「幻想」への愚かな信仰の産物であり、「空虚」を否認する欺瞞的なやり方のひとつにほかならないからだ。


たとえば、彼の代表作のひとつである「かわいい女」では、誰か特定の対象、とくに男をどっぷりと愛することによってしか「自分らしく」生きることができず、そうした相手がいなくなると、「自分の意見」というものが何もなくなってしまったと感じる女主人公の姿を、われわれは(村人たちと同様)「かわいい」と思うことはあっても、愚かだとは思わない。
それは、彼女の姿が、われわれ自身の人生の実像を、われわれに自覚させてくれるものだからだ。人生は空虚であり、何かでその空虚を満たすということをしなければ、われわれは自分の人生を「充実したもの」として生きられない。
愛情や信仰ばかりではなく、嫉妬や偏見やナショナリズムといったものも、そこから生じるわけだが、それはむしろわれわれの生の条件なのだ。
チェーホフは、そうした思い違いに満ちた「かわいい」人生以上の、なにか実体的で賢明な生き方があることを示すわけではなく、ただ現実の人生がほんとうは空虚で「幻想」なしには成立しえないものだという事実を表現するだけである。そして、それにもかかわらず、われわれはそういう空虚な人生を懸命に生きる以外にないのだと示唆する。
ラカンの言葉を使うなら、他人のなかでの「症候」としての生に賭ける以外に、われわれのとりうる道はないのだという現実を、静かに指し示すのである。