『ビヒモス』その1

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)

ビヒモス―ナチズムの構造と実際 (1963年)

ナチス研究の古典とされている本だが、書かれたのは1941年。執筆時には独ソ戦も始まっておらず、何より、ユダヤ人に対するいわゆる「最終解決」、つまり絶滅政策というものも、まだ始まっていないか、少なくともまったく知られていなかった時期である(強制収容所の存在そのものは知られていたが)。
このため、本書の中では、ドイツの市民(特に労働者階級)は、「宣伝とテロ」によって一時的にだまされたり沈黙を強いられているだけだという可能性が考えられ、「ヒトラーとドイツ人の間に楔を打ち込む」必要が述べられている。
また、ドイツという国は元来、ヨーロッパの中でも自然発生的なユダヤ人憎悪の少ない所であり、ナチスにとってユダヤ人迫害政策は、大衆の不満を逸らすための貴重な手段であるから、ユダヤ人の絶滅ということは決して起こらないだろう、とさえ述べられている。
それが、大戦末期の44年に書かれた「序」の中では、次のような一文が書かれている。

『国民社会主義が軍事的敗北なくして、壊滅されるかどうか、私にはわからない。』


この言葉には、深い失望が込められているのだろう。
著者は、戦争終結まで、ドイツ国民をナチスから離反させる可能性を信じ続けたであろうが、結局、そうした離反は起らなかった。この離反は、戦後、苦しい反省の歴史のなかでなされるほかなかった。われわれの国が体験して来なかった、いまだにそれを拒み続けている、歴史である。


まず「序論」では、ナチス台頭を許したワイマール共和国の体制が、その崩壊が不可避的なものだったとして、批判的に論及される。
この体制は、社会の中の諸集団の敵対的な関係を、協調という妥協的な形に置き換えるようなものであったが、そうした隠蔽が、第一次大戦の敗戦を経ても残存してきた右翼的・国家主義的な権力の維持と強化、そしてナチスという集団の台頭の有利な条件となった、というのが著者の見方である。
たとえば、階級闘争は、ワイマール体制においては、労使間の「階級協調」へと転じられた。だが現実の権力は、とりわけ支配的である右翼政治家や産業資本家、軍人などは、あくまで(民衆に対して)敵対的にしか振る舞わないものであるから、こうした「協調」は、必ず崩れ去る運命にある。
労働組合は闘争力を失って弱体化し、議会は自らその権能を独裁的権力へと放棄(委譲)していき、司法は左翼への弾圧と右翼の台頭を後押しするための機構と化していく。

『議会の立法権の衰退はファシスト時代に先立つドイツ共和国の最後の時期、すなわち一九三〇年から一九三三年にかけての産物にすぎないと考えるならば、それは誤りであろう。連邦議会は立法の独占権を保持することにあまりに熱がなさすぎた。(p29)』


民主主義を壊滅させるにあたって、特に重要な役割を果たしたのは、ワイマールの刑事裁判所だ。
そこでは左翼の「一揆」に対しては徹底的な弾圧が加えられる一方で、カップ一揆ミュンヘン一揆など、ナチスを含む右翼側の一揆については、ほとんど罪に問われることがなく、むしろ証人台に立ったヒトラーのような人物の攻撃的演説の場を提供するだけだったのである。


ナチスは、「協調」の美名のもとに身を隠した、この社会と国家機構との右翼的支配層と結託することで、徐々に権力を掴んでいったのである。

『国民社会主義ドイツ労働者党は一つのイデオロギーを持たず、極めて雑多な社会階層から構成されており、あらゆる領域の残滓を受け入れることを決して躊躇しなかった。だから軍や裁判所や一部の官吏に支持され、産業から資金の融通を受けていた。また大衆の反資本主義的感情は利用したが、決して有力な金持ち集団を疎遠にしないよう注意していた。テロと宣伝がワイマール民主主義の弱い部分を襲った。そもそも、一九三〇年から一九三三年にかけては、ワイマールそのものが、たんなる一つの大きな弱い部分でしかなかったのである。(p35)』


著者は、ナチスの台頭を、ドイツ帝国が産業資本の論理のもとで一貫して行ってきた拡張主義政策への先祖帰りであると捉えている。
恐慌など、ワイマールが直面した困難な状況は、この社会の基層低音を強力に奏で続けてきた、軍・大企業・右翼政治家などの願望である拡張主義のイデオロギーを、再び国家に選択させる方向へ向かった。
だが、以前とは違って、大衆による民主主義という仕組みのなかで、そのことを果たす必要があった。そこで、拡張主義は国民社会主義(ナチズム)という形態をとったのである。


(次回に続く)