「自然」という言葉について

あるブログで、このところ「愛国心」ということから始まって「自然な感情」ということに関して、興味深い内容が語られ、議論されている。

http://blog.livedoor.jp/niwatori5555/

それに関連して、少しおもうところを書いてみたい。


まず一般論として、「これは自然な感情だ」とか「何々するのが自然だ」という言い方は、ぼくの好みとして好きではない。特に「国家」だの「国籍」だの「結婚」だのという制度に関する話で、「自然な感情」というものがありうるとは、にわかには同意しがたい。
いや、そうではなくて、やっぱり「自然な感情」というのはどこか矛盾した言葉なのだろう。
しかし実際には、なんらかの感情を「自然」だということにしなければ、人間は社会生活をおくれない気もする。とすると、全て人工的であるいろいろな感情をどう構成して社会を作り上げていくかという、荻生徂徠みたいな話になるのだろう。
これは難しいところだ。

「自発的選択」について

ただ、こういうことがある。少し話題がずれるとおもうが、「自然な感情」とはどういうものか、ということに関係する話だとおもうので、我慢して読んでもらいたい。
このところNHKでも民放でも「テレビを買い換えろ」というキャンペーンばかりやっている。あと何年かするとデジタル放送というものしか見られなくなるらしいから、見続けたければ買い換えなければ仕方がないのだ。ぼくに言わせれば、これは「強制」だ。
ところが、「テレビの売り上げが伸びています」というふうなニュースでは、景気がよくてみんな喜んでテレビを買ってるかのような伝え方しかされない。つまり、みんなの自然な感情(購買意欲)の発露として、テレビの売り上げが伸びているみたいにしか言われないのだ。これ、変でしょう?
最近のテレビのCMでぼくが一番腹立たしく思ったのは、ある携帯電話の会社のもので、小林桂樹の扮する老人に家族が操作の簡単な携帯電話を買わせようとするやつだ。家族の一人がこの老人に向かって「公衆電話も減ってるんだから」と、まるで自然現象のように言うが、画面に向かって『減らしてんの、お前らやろが!』と突っ込みたくなった。携帯電話の普及の初期に、街角の公衆電話をどんどんなくしていったのは、この携帯の会社ではなかったが、携帯電話がなければ暮らしにくいような環境を産業界や行政が作り上げてきたことは間違いない、とおもうのだ。
テレビがデジタル放送に変わり、あるいは公衆電話が姿を消すのは、技術が発展したのだからしようがないといっても、技術の進歩が選択肢を減らし手段の画一化をもたらすという必然性はないだろう。明らかに、資本や行政の意図による消費者にとっての選択肢の削減がおこなわれていて、そのなかで羊が柵のなかに追い込まれていくみたいに、みんなが新しい特定の電化製品を買わされている。
その結果として国民の情報管理が進む、というところまでは言わないが、とりあえず「強制」による選択を、自発的な選択であり、「自然」な感情の結果のように言いくるめようとするのが、ぼくには気持ち悪い。
たわいもないことのようだが、どうもこういうことが多すぎる。
公衆電話の数が減るのは「自然」なのか。地上波の放送がなくなるからみんなが新しいテレビの受像機を買うのは、「自然」な感情で「自発的」なことなのか。


しかし、みんなそのことをどのぐらい不快にかんじているのだろうか。じつはそのことが一番疑問なのだ。特定の商品を選択させるために人為的に作り上げられた環境を、牧場でなく自然の野原のようにおもってるのではないか。
どうも「自然」と「人工」との、あるいは「強制」と「自発的」との境目が、人々の意識のなかで変わってしまっているような気がするのだ。
自分にはそれが不快だというだけで、この人々の意識の変化そのものをどう考えるべきかは、ちょっと分からない。

「自然」という言葉の不思議さ

ただ、それにつけてもすごく不思議なのは、上記のブログで詳しく論じられていることだが、「そうすることが自然なんだから」というふうに言うことによって、選択の幅が狭められてしまうという事実である。つまり、「そうしないことは不自然(異常、違反)だ」という意味合いを生じてしまう。
愛国心を持つのは自然だ」という意見を受け入れてしまうと、愛国心を持たないことは、異常だというふうになってしまう。「愛国心」そのものが危険なのではなくて、「愛国心は自然だ」という言い方が問題なわけだ。
この「自然だ」という言葉の効果は、なかなか不思議だ。「多様な自然」を肯定するというふうには、どうもいかないのだ。
愛国心をもつ人も自然であり、愛国心をもたない人もまた自然である、というふうに言えればいいのだが、「自然」という言葉の魔力がそれを言わせなくしてしまっている。
これはどうしてだろう?


戦争は自然か?

その点はよく分からないのだが、ひとつ思うことは、どうも「自然」という言葉には、「それに抵抗するべきでない」という意味合いがこめられているということだ。これは、日本語では特にそうなのかもしれない。
上で少し書いた、「自然現象」のように社会的事象をとらえるということに関して言うと、たとえば日中戦争や太平洋戦争について、あれを自然災害のようにいう言い方があるが、あれは人災、それも突き詰めていえば国民自身が犯した人災であると、ぼくはおもう。国家がやった戦争だといっても、それをとめられなかった責任はやはり国民にある。だが、そういう議論は戦後あまりなされてこなかったとおもう。
日本の場合は、やはりそういう社会の人工性のようなことに対する感覚が、元来希薄だということはいえるのだろう。これが、憲法に対する意識の低さにもつながっているとおもう。
国家がやる戦争が「自然現象」なら、それに抵抗することは無意味だし、人々はその被害者(被災者)だというだけで、何らの責任も負う必要がないわけだ。
どうもこの「自然観」から、ぼくたちはうまく抜け出せてないことは事実のようだ。
だが、それと今おこっていることとは、また違う側面もあるだろう。


まとまらない話だが、今日はここで打ち切る。