カフカの『変身』

グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に変わっていることに気がついた。』

変身・断食芸人 (岩波文庫)

変身・断食芸人 (岩波文庫)

青年は、毎朝目覚めると決まって「グレゴール・ザムザ」という名前と属性を持った存在になっていたわけだが、この朝はたまたま違っていた。一匹の毒虫になっていたからである。
カフカのもうひとつの有名な小説『審判』(もしくは『訴訟』)と同様に、この『変身』という作品も、眠りから目覚めへの変容の瞬間に起きるわずかな狂いが主人公の運命を決定してしまうという話だが、この作品の場合、目覚めてみなければ「状況」どころか自分がどんな「属性」をもつ存在になっているかわからないという奇妙な不安のうえに成り立っているところが、いかにもカフカの物語らしい。

映画『変身』を見て

先日、大阪九条の映画館で、ワレーリイ・フォーキン監督のロシア映画『変身』を見た。この作品は、カフカの原作の忠実な映像化であるとはおもうのだが、正直なところ、ぼくには面白くなかった。この小説を映画や演劇にする場合の一番の問題点は、「毒虫」をどのように表現するかということだとおもうが、この作品がとった方法は、かんがえうるもっともシンプルなものだった。いわれてみればこれ以外に解決策がないともおもえるようなもので、下手に小細工をするよりは面白い効果が出ていたとおもうが、そのほかにはみるべきところのない映画だった。もう上映がたいがい終わったようなので、悪口を書いてもいいだろう。

小説『変身』のあらすじ

ところで、せっかくなのでカフカの原作のことについて、少し書いておきたい。
『変身』は、カフカの作品のなかでも一番読まれているものだろうが、未読の方もおられるだろう。簡単に筋を説明すると、次のようになる。
両親と妹と4人暮らしの青年グレゴール・ザムザは、小さな商社に勤めるセールスマンだが、上記のように、ある朝目が覚めると一匹の「毒虫」に変わってしまっている。この「毒虫」というのが、どんなものだか読んでもよくわからないのだが、足がたくさんあると書いてあるからムカデか団子虫のようでもあり、甲羅が硬いと書いてあるから甲虫のようでもあるが、残飯を好んで食べ、部屋の天井や壁を埃まみれになって這い回るというところを読むとゴキブリのようでもある。でも、「毒虫」ということはやっぱりムカデとかなのか?
ともかく、そんな虫に「変身」してしまったグレゴールに家族は驚き、出勤してこないので家に訪ねてきた職場の上司は最初部屋に閉じこもってサボタージュしているとおもって憤慨するのだが、どうにか内側から鍵をあけて這い出してきた姿を見て驚愕し、逃げ出してしまう。このへんのやり取りの描写は傑作だ。世間体もあるので、家族はグレゴールを自室に押し込んでおくことにするが、グレゴールは一家の唯一の働き手だったため、一家はたちまち経済的に困窮し、すでに退職していた老父が守衛の仕事についたり、母親と妹が内職をはじめたり、また部屋を間借りさせて家賃をとったりして、やりくりしていくことになる。面白いのは、耄碌しかけていた父親が仕事を始めたとたんに活力を取り戻し、情けない姿に変わり果てた息子を圧迫する権威的な存在に変貌することだ。妹は、グレゴールが変身してからもおそるおそる食べ物を持ってきてくれたり面倒をみてくれるのだが、兄を自分の独占的な支配下におき続けようとしているようでもある。あるとき、妹と母親が自分の部屋から家具を片付けようとするのに驚いたグレゴールは、こころならずも母親を失神させ、また妹を怒らせる。このとき、帰宅した父親に林檎を投げつけられたグレゴールは背中にひどい傷を負ってしまう。間借り人たちに妹がバイオリンを聞かせている最中に再び出現したグレゴールに激怒した妹は、兄を指差して「これを処分しろ」と言い放つ。林檎の傷がもとですでに衰弱しつつあったグレゴールは、この妹の言葉が最後の呼び水のようになって、その直後に自分の部屋で静かに息を引き取る。三人になった家族は平安を取り戻し、両親が、この妹もそろそろ嫁がせねばと考える小津作品のような場面で、この小説は終わる。

カフカの自己否定とその政治性

ざっとこんな話なのだが、そんなに長くないので、関心のある人は読んでみてください。
以下、この小説について、おもっていることを少し書きます。

この小説は、同じ作者の晩年の傑作『断食芸人』と並べて語られることが多い。どちらの作品も、直接的な理由は違うのだが、主人公が次第に食事をとらなくなり、衰弱して自ら選んだかのように死んでいく話だからだ。自分のなかにある何かを貫き通すために、あえて絶食し死にいたるという過激さが、この二つの小説の主人公の共通点だ。

『「ぼくにだって食欲はあるさ」と、グレゴールは不安でいっぱいになって、独りごちた。
 「でも、こんなものは食べたくないね。どんなにこの間借りの紳士たちが食べようと、ぼくは食べずにくたばっていくんだ!」』

この台詞は、「断食芸人」の末期の言葉を思い出させる。
『断食芸人』との比較をここでするわけにはいかないのだが、グレゴールのこの絶食と衰弱死に、ある種自ら選んだ要素、自己の否定に向かうラディカリズムがあることはたしかだとおもう。
しかしそれは、彼を「言葉が分からない」と決めつけ(実際はグレゴールは言葉を理解している)、部屋に閉じ込めて排除し、あげくに物扱いをしはじめる家族たちに対しての、自己犠牲的な愛情のあらわれとして描かれているのである。
死を迎えるグレゴールの内面の描写は、次のようになっている。

『彼は家族たちのことを、感動と愛情をこめて回想した。自分は消えていなくなるべきだ、というグレゴールの考えは、ことによると、妹のそれよりもはるかに決然としたものなのかもしれなかった。』

ここに、この小説の性格がよくあらわれているとおもう。
ドゥルーズ=ガタリが『カフカ――マイナー文学のために』で述べたように、ここでのカフカの主人公は、家族という権力装置の外には逃れでていないのだ。逆にそこに、この小説がその均整のとれたスタイルによって多くの読者に好まれてきた理由があるのかもしれない。
こうした特徴がよく示されているのは、グレゴールが死んでからの家族の様子の描写である。グレゴールの死を、悲しみよりも安らぎの感情によって迎え、「異物」の排除によってもたらされた安定と小さな幸福を享受する家族の様子を描くカフカの筆致には、皮肉がこめられている。
だがそれは逆に言えば、「皮肉を込めた現状肯定」という否定的な形でしかカフカが現実(ここでは、家族がもつ権力性)と向き合えなかったことを示しているとおもう。カフカはここで、家族たちのエゴイスティックな態度を、もっと明確に批判してもよかったはずだが、そうは書かなかった。ぼくはここに、この時期のカフカの、悪い意味の「弱さ」あるいは「ずるさ」をみる。
絶食による死を、「家族のために」と理由づけることによって、グレゴールは自分の内なるラディカリズムを現実に対峙させることを回避している。この回避のために、グレゴールの死の英雄(献身)的な性格は、「家族」が「国家」や「宗教」や「党派」に変われば、簡単に政治的・集団的な意図に回収されてしまうものとなっている。カフカ文学の内向性には、そうした危険性が含まれていることを忘れるべきではない。
著名なカフカ研究者エヴリン・T・ベックが、カフカ文学を『今日のシステムが変革できないということを人々がエンジョイするための制度(装置)』と批判したのは、必ずしも不当なことではないのだ。彼の文学には、人を現実から退行させ、眠りへと誘う毒薬のような性格がある。つまりそれは、政治的な権力のための装置として強力に機能する一面があるのである。すぐれた「文学作品」だからこそ、その危険性も高いのだ。また、彼の文学の非政治性は、その作品が及ぼす現実的な効果の政治性を消し去りも薄めもしない。


グレゴールの死は孤独な自己否定的な死だが、それが政治権力の圏域の外側にあるものだとは限らないのである。