カフカ賞とイスラエル問題

村上春樹エルサレム賞受賞(受諾)とその講演のことが話題になっている*1けれども、国際的な文学賞の舞台にこの作家がはじめて登場したのは、06年のフランツ・カフカ賞だろう*2


村上は、『海辺のカフカ』という題の小説も書いてることだし、このあまりに有名なユダヤ人文学者の名が付いた賞を受けるということは、意外に思わない人もいるかもしれないが、ぼくはカフカの母国といってよい、というか最もカフカ文学への思い入れが強いはずのチェコのこの文学賞を村上が受賞したと聞いた時には、いささか驚いたものだ。
この時の記事を探してみたら、以下のものが目についた。

http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/50351600.html


カフカが村上にとって「最も好きな作家だ」というのも、ぼくにはやや意外だったが、それはよいとして、次の文章。

ところで、プラハ生まれのユダヤ人作家カフカの作品は、ソ連軍がチェコの自由化路線(プラハの春)を踏みにじった以降、共産主義文学観とは相容れないものとして、チェコ当局によって長い間、出版を禁止されたことがある。
 測量師Kが陥る不条理な世界を描いたカフカの代表的長編「城」はプラハの風景と一致し、カフカプラハとの間には密接な関連があり、「カフカプラハ」を論じた多数の研究書が出版されているほどだが、そのカフカの作品は1968年の「プラハの春」後、同国の書店や図書館から姿を消していったのだ。


また、

ウィーン在住の著名なチェコ人作家パベル・コウル氏は「カフカの作品は、共産主義官僚主義的、全体主義を痛烈に批判しているから、当局から出版を禁止されたのだ」という。コウル氏は「共産主義者カフカの作品を嫌う理由は、一時共産主義に惹かれながら、スターリンの独裁主義に直面し、小説『1984年』の中で、共産主義体質を糾弾したジョージ・オーウェルに対するのと同じだ」と説明してくれた。


このへんのことについて。
ぼくの印象では、カフカの小説が、官僚主義全体主義を批判したものだという理解のされ方は、それほど一般的なものではない。
たしかに日本でも、やはりチェコスロバキアで評価の高かった安部公房の作品との類比などから、カフカの文学を、実存主義とか反スターリン主義的な体制(システム)批判の文学とみなす傾向が強かった時代もあっただろう。世界的に見ても、(ドゥルーズ=ガタリの論は別にしても)アドルノなどのように、カフカの文学の制度批判的な側面を強調する論者もいる。
だが、主に60年代後半の「反システム運動」の時代以後だと思うが、カフカの文学は、とくに西側の左翼の間では、体制への順応をそそのかす装置であるごとくにみなされてきたと思う。それは、著名なカフカ研究者、エヴリン・T・ベックが、『カフカと情報化社会』という本のなかで、著者粉川哲夫のインタビュー*3に答えて述べている、


『今日のシステムが変革できないということを人々がエンジョイするための制度(装置)』


という評言に代表されるようなカフカ文学観である。
また一方、今日では、日本においてとりわけ顕著なように、カフカの文学のこうした「脱政治的」とみなしうるような側面を、むしろ肯定的にとらえたカフカ観が、学者や文学者のなかでも、とりわけ消費社会の読者の間においても、広く支持される傾向にあるのではないかと思う。
これらはしかし、かなり錯綜した事態だと思うが、ここでは立ち入らない。


これに対して、社会主義体制下にあった、カフカの出身国(といってよい)チェコスロバキアでは、カフカ文学の受けとめ方はまったく違っていたことを、上述のチェコ人作家コウル氏の証言は語っているわけである。
当時(特に60年代後半)のチェコでは、カフカの文学は、政治と極めて近いところに位置づけられていた。
それは、当時世界的にも名を知られた同国のカフカ研究の第一人者が、「プラハの春」のときの臨時政権の首相のような位置についたことからもうかがえるだろう(その名前を忘れてしまったが、やはり上記の本の中に出てきます。)。


こうした、時代による、あるいは東西間の、カフカ文学への受けとめ方の違いや変移は、それ自体で多くのことを考えさせる。
だが、ここで書きたいのは、そうしたことではない(つまり、今までのは前書きでした。)。
書きたいことは、この時代のチェコにおけるカフカ文学の受けとめられ方、そしてそれが弾圧の対象になったことと、カフカユダヤ人であったことの間には、何か関係があったのではないか、ということである。
というのは、第二次大戦後、ポーランドチェコスロバキアルーマニアなど、東欧の社会主義政権の多くが、国内のユダヤ人に対して排除的・抑圧的な政策をとったことが知られているからだ。そうした政策の結果、これらの国々では、戦後ユダヤ人の人口が減少し続けることになるが、無論、その多くがイスラエルに移住したのである*4
つまり、これらの国においては(とくにカフカの母国であるチェコにおいて)、ユダヤ人であるカフカの文学は元々、社会主義体制にとってだけでなく、(国民)国家の統合にとっても不都合な存在と見なされていたのではないか。そのことが、反体制運動や体制側の弾圧における、カフカの作品の位置づけや解釈にも、何か影を落としているのではないか、と思うのである。
そして逆に、「民主化」以後の東欧におけるカフカ復権にも、政治的な意味、とりわけカフカユダヤ人であったことに関わるような意味合いがあるのかもしれない。


こうした推測が当たっているかは分からない。
ともかくカフカ賞の存在とカフカ文学の受容の推移とは、東欧の国々において戦後ユダヤ系の人々が排除の対象とされてきた歴史を想起させるのである。
社会主義国ユダヤ人に対する政策というと、強制移住をはじめとするスターリンによるものなど旧ソ連のそれを思い浮かべがちだが、他の東欧の国民国家においても、やはりユダヤ人は排除の対象だったのだ。
そして、その多くがイスラエルに移住した。


イスラエルへのユダヤ人の移住というと、ナチスが行ったホロコーストという「絶対悪」の間接的な影響によるものか、もしくはイスラエル国家なりシオニズム運動の宣伝工作の成果みたいにのみ考えがちであるが、少なからぬ人々は、このような居住先の国家における「排除」の結果として、イスラエルへの移住を選択したはずなのである。
「ほかの国に行けばよいではないか」というのは、あまりにも当時のユダヤ人の状況を考えなさ過ぎる意見であろう。「イスラエルに行くか、死か」という二択のなかに置かれていると感じていた人たちも、少なくなかったはずである(無論、シオニストもそこに追い込んだ加害者の一員であるが)。


よく、イスラエルは(アメリカ合衆国などと同様に)「国際植民地」というふうに言われる。
だが、たとえばヨーロッパの人たちがかつてアメリカ大陸(現在の)に移住・植民した時や、近代のはじめに(現在の)日本人がアイヌモシリ(北海道)に移住・植民を行った時と比べると、そこにはやや違いがある。
それは、イスラエルに移住したユダヤ人の多くには、帰る場所がなかったはずだ、ということである。彼らは、いわば排除され追放されて、そこに来たのだ。そうした人が全てではなかったが、確実にそういう人たちは居た。
その人たちは、なかば否応なく、隣人との血で血を洗うような現場に、戻りうる場所もなく、立たされることになる。一方彼らを追い出したほうの人間(国民)は、もはや自らの手を汚すこともなく、平然と「和解」や「権利」や「共生」や「解放」を唱えていられるのである。
無論、そうしたことは、この移住(植民)者たちが、その先でパレスチナ人に対して振い続けている暴虐を正当化するものではない。だが同時に、そもそもはじめに「排除」を行った側の者たちの責任を(自ら)問うことなしには、こうした暴虐への批判が実効性を持つはずもないのである。


そして、さらに根本的に考えるなら、先に「やや違いがある」と書いたが、それは本当に大きな違いとはいえない。
多くの場合、殺戮や迫害が起きるような場所に生きる人たちは、その加害者であっても、そこに生きることを余儀なくされた人々である。
誰かが誰かを、力や数にものを言わせて、理屈で正当化し情緒で扇動して追い出す、排除する。この構造が続く限り、現場での暴力、殺し合いは、本当に終わることはない。
とすると、鍵を握っているのは、現場の人々である以上に、つまりパレスチナ人ではなくむしろイスラエル人であるということ以上に、少数者を排除し続けている国家や社会の論理の内側で特権的に生きている、ぼくたち自身である、ということになる。
この見地を手放さない批判だけが、真に効力のある、現実への働きかけたりうるはずである。
そして、どちらかといえば少数者を「追い出す側」の立場に居る、多くの日本国民は、とりわけこのことを忘れてはいけないだろう。

*1:村上さんの講演には、ぼくも感動を覚えた。

*2:ちなみに、前年の受賞者は、ハロルド・ピンター

*3:このインタビューについては、また別に紹介するつもりです。

*4:この政策が、イスラエルが次第にアメリカ寄りになっていったことと関係してるのかどうかは分からない。