『マイケル・K』

マイケル・K (岩波文庫)

マイケル・K (岩波文庫)

この小説は、南アフリカ共和国出身のノーベル賞作家、クッツェーの代表作の一つと言われているものだそうである。
とっつきにくいところがあるかもしれないが、とにかく読んでみることをお勧めする。
僕は、主人公が自分にとってどこか身近に感じられる人物だというだけではなく、現在の世界(この作品が書かれたのは80年代前半らしいが)、とくに今の日本社会を象徴的に描いたかのような小説だと感じ、非常にひきこまれて読んだ。


主人公の名は、作品名と同じマイケル・K。
この名前のせいもあって、この小説は発表当時、カフカの作品との関係を云々されたらしい。
『変身』や『城』を指しているのだろうが、むしろ内容は、カフカの作品でいえば、『断食芸人』や『アカデミーへの報告書』を思わせるところがある。
また、主人公の態度が、なんらかの社会性に対する徹底的な拒絶のように見える(「本来の特質を変えるよりは死のうとする肉体」と、ある登場人物は評している)ところは、一見、メルヴィルの『バートルビー』の主人公の末裔のように思われもする。
しかし、その行動が、たんに拒絶や消極性を示すものではなく、『ロビンソン・クルーソー』を髣髴させる、驚くべき独創的な工夫や粘り強さによって切り開かれていくものでもあることが、この作品の独特の魅力を作っているのだ。


さて、マイケル・Kは生まれた時から口唇裂という障害をもっており、それにも関係してか、自分の思いや考えを人に伝わるようにまとめて表現することが、うまくできない。
周囲の人は、彼を知性や意志を持たない人間のように見なし、彼自身もまた、そういう見方を内面化させているところがある。
貧困のなかで彼を育ててきた母親と、内戦状態にある国の都会の片隅で暮らしてきたマイケルは、ある時、この年老いた母親を手作りの車椅子に乗せて、彼女の生まれ故郷である田舎の土地にたどり着こうと無謀な旅に出る(この行為は、初発としては「母の為に」思いつかれるのだが、Kの執念はすでにそれを踏み越えるものをもっている)。
この母親は、旅に出て間もなく亡くなってしまうのだが、そこからマイケルの、本当の旅の物語が始まるのだ。
マイケルは、母の生まれ故郷だと思われる荒れ地のような農場の土地に、母の遺灰を撒くことを決意するのだが、その行為から、彼の「農耕」という孤独なプロテストが開始されるのである。

なんだか心もとなかった。目を閉じて気持ちを集中させ、声が語りかけて自分のやっていることが正しいと言って安心させてくれるといいのに、と思った。母親にまだ声があるなら
母親の声でもいい、だれの声でもいい、自分の声だってかまわない、何をすべきか自分の声が教えてくれることだってあるのだから。しかし、どんな声も聞こえてこなかった。そこで穴から包みを引き上げ、それなら自分でやるしかないと決めて、畑のまんなか数メートル四方を平らにならし、低く身を屈め、風に吹き飛ばされないよう灰色の細かな骨灰を大地にまいた。それから何度もシャベルで土をすくって裏返した。
 こうして耕す者としての彼の生活が始まった。(p93〜94)

 この母親の存在、また、その「故郷」としてのアフリカの大地との関係は、植民地主義を主要なテーマにしているとされるクッツェーの作品において重要な意味を持つと思われるが、ここでは立ち入らないでおく。
 ちなみに、この作品には、現代の一般的な読者が読む場合には、主人公や母親の人種を推定できる手がかりがほとんどないのだが、そこには、アパルトヘイト体制下での厳しい検閲という事情もあったのだろう。
 ついでに言うと、僕には、この小説に書かれている事柄が、その当時の南アフリカの情勢をリアルに描いているのか、それともSF的な設定なのかが、読んでいて分からなかった。どうやら、近未来小説的な手法で書かれたもののようだ。


さて、内戦状態にある国家と社会に背を向けるように、逃避行のように放浪し、あるいは、荒れ果てた土地で極限的な自活生活を続けていく主人公を、しかし国家の目は見逃さず、集団で強制労働させるキャンプに閉じ込めたり、別の施設の中で矯正しようとしたりする。
この国家の力からの脱出、自立の試みこそ、この小説のテーマだといえる。
キャンプとは、国家や資本によって生存の隅々までが支配されているわれわれの日常生活そのものを指す形象であり、マイケル・Kは、死を賭してまで、その支配に抗って生き抜こうとするのである。
たとえば、マイケルの行動を自分にひきつけて理解しようとするある登場人物は、こういう風に語る。

ここは大きな国だ。これほど大きいのだからだれにも十分な場所があると思うだろう。ところが私が人生で学んできたのは、キャンプから離れているのは難しいということだった。それでも、キャンプとキャンプのあいまには、キャンプにもどこにも属さない区域が、それぞれのキャンプ圏域以外の場所が必ずあるはずなんだ。(p256)

 作者クッツェーもまた、マイケルのように、驚異的な工夫によって「キャンプ圏域以外の場所」における生を、文学表現という仕方のなかで模索しつづけた人と言えるのかもしれない。
 当時の南アフリカは、自由のない国のように言われたが、制度上は少なくとも現在までは「自由」を保障されているこの日本で、マイケルやクッツェーのような「キャンプ圏域以外」の生を切り開く意志のある人間がどれだけ居るだろうか。
 僕には、他のどの国よりも少ないと思えるのだが。
 マイケル・K自身は、最後に近いところで、こう言っている。

たぶん、真実は、キャンプの外にいるだけで十分ということなんだ。ただし、あらゆるキャンプの外にいること。ひょっとすると当座はそうしているだけで十分なのかもしれない。閉じ込められもせず、門のところで見張りに立つこともない人間が、いったいどれほど残っている?(p283)

この小説は、日本というこの植民地主義の牢獄に馴染んだ僕たちにとって辛く重いが、不敵で希望に満ちてもいる、不思議な作品である。