アエラの記事「棄てられるがん患者」を読んで

普段、雑誌というものをあまり読まないのだが、これは表題の見出しが電車の中吊り広告にあるのを見て、すぐに買った。
記事の内容は、病院死を減らして「在宅死」の割合を増やすことを推進するという厚生労働省の方針転換により、末期のがん患者など死を目前にした人たちが、家に戻ってからの地域での支援の体制の整っていないままに退院を余儀なくされることが多くなり、各地で悲惨な事例も起きているという現状を伝えるもの。
たとえば余命一ヶ月と告げられたがん患者が、病院から支援先のリストを渡されて自分で電話をかけて在宅ホスピスの担い手を探したという話とか、モルヒネと栄養の点滴の装置の説明を受けていなかった患者の妻(70代)が自宅で点滴中に機械のトラブルに対処できずパニックになった例とか、ともかく退院後の体制作りが整っていない現状で、病院から出て行かざるをえない状況になり、ひどい事態が多発していることが書かれている。


よく取材されていると思うが、全体として、首をかしげるところの多い記事だった。
記事の書き手のスタンスは、「在宅死の割合が増えるのは、自宅で最期を迎えたいという患者や家族の思いにも沿っていて、基本的には望ましいことだが、それを支える支援体制の整備が遅れていることが問題」ということのようだ。
なるほど、人生の最後を病院ではなく、自分が生活してきた空間で、家族と共に暮らす時間のなかで迎えるというのは、それ自体悪いことであるはずはない。
しかし、今起きていることは、それで済ませてしまっていいことなのか?
こういう一節がある。

いま国は、病院で最後を迎えるのではなく家で過ごせるようにと、「在宅死」を推進している。現在、自宅で亡くなる人は約13万人で、死者の約1割強にすぎない。この在宅死を2038年には4割に増やしたい、というのが厚労省の考えだ。医療費抑制のねらいもある。


「ねらいもある」って、それが主たる「ねらい」だろう。
見開きの写真に付けられたキャプションには、

病院にとどまるのは難しい時代になった。在宅死が倍増すれば医療費を5000億円削減できると言われる


とある。


医療費の削減が主たる「ねらい」でなければ、他に何があるのか?
まさか、患者に「人間的な最期」を迎えてもらうことが目的だとでもいうのか?
医療費の削減のために瀕死の患者を病院から放り出すような仕組みによって、どんな「人間」性が保障されるのか。欺瞞以外のなにものでもない。


いま起きていることの本質は、生き残る者や健康な者の都合によって、死に向いつつある人たちや病気の人たちの境遇が決定されつつあるということだ。現在の社会で、この「都合」のなかの最大のものは、「改革」や「経済原理」である。
そのことに目を閉ざして、「在宅死」を「本人や家族にとっても望ましいこと」であるとだけ言うのは、表現としても欺瞞であるし、そのことによって医療費削減の目的達成を果たそうとするのなら、それは本人や家族の「思い」を手段として利用していることになる。


病院でなければ、十分な看護が受けられないということは、実際に多くあるはずだ。
「自分の家で最期を迎える」かどうかは、最終的には本人が決める問題であって、経済上の都合で押し付けられるべきことではない。
またたしかに、病院には病院の、現場には現場の事情があるだろう。
だがそれを言うなら、今起きているのは、医療改革によって現場で働く人たちの余裕がなくっているということである。だから、患者に対しても、医者や看護士がときには性急に退院を求めるということが起きる。その雰囲気を感じ、物腰に押されて患者たちは、やむなく自宅に戻るという選択をする。
現場で働く人間から余裕を奪い、患者から安心して療養できるベッドを奪い、その構図のすべてが「在宅死」という美名(?)のもとに正当化されるのだ。
必要なのは、余裕や安心を犠牲にするような改革に歯止めをかけることであり、また改革を正当化するために人の死の望ましい在り方を勝手に決め付けるような横暴を批判するということである。


在宅で、ほんとうに十分な医療や看護が受けられ、最期の時間を過ごせるのなら、もちろんそれは、それを望む人にとってはいいことだろう。
だが、すべての患者がそれを望むと考える根拠はないし、またそうあるべきだと考える理由もない。
必要なことのひとつは、たとえば病院をもっと人間的な場所、安心して人が死を迎えられる空間に変えていくということである。今の医療改革は、それとは逆の結果をもたらしている。
人の生と死は、家庭という限定された私的な空間にだけ特権的に結びつく必要はない。


また介護、看護の問題についても、家族の「責任の放棄」だけを非難するのは、ことの本質を覆い隠すことにつながる。
本当に責任を放棄しているのは、国であり社会であり、またその意味で「われわれ」自身なのだ。