続・『血と骨』の感想

きのう『血と骨』の前半が面白くなかったという話をしたが、どう面白くなかったのかを書かなかった。映画の紹介だというのに、悪口になりそうなことだったので、ながながと書くのがいやだったのだ。
映画の技術的なことはぼくにはわからないし、関心もないが、自分が感じたところから何が見えてくるか、もう少し鮮明にしておきたい気がする。
悪口にならないように、できるだけ作品とはきりはなしてかんがえてみたい。
この映画を作った人たちが普遍的な移民の物語を作ろうとしたのではないかと感じたことは、先に書いた。移民を題材にした映画は、もちろん世界中に星の数ほどある。「映画」と「移民」という二つの歴史的現象には、なにか特別な結びつきがあるのかもしれない。
しかし『血と骨』が、「移民」を題材にした優れたいくつかの映画と比べられるようなものをもっているかというと、どうももてていなかったような気がする。
たしかにいまの日本映画という枠のなかでは、そうとうぬきんでた力作であるとはおもう。だが、世界のほかの国の「移民」を題材にした映画とくらべると、食い足りないものがある。それは、どうしてだろう?

ぼくはどうも、これは今の日本映画というか、日本の社会や文化がつくっている枠組み自体に、あまりにも力がないことと関係しているのではないかと思うのだ。
抽象的な言い方になるが、ある物語が普遍的な力をもつためには、体験の固有性(歴史性)の肯定が必要だと思う。ところが、いまの日本の社会や制度は、本音のところでは「固有」なものを受け入れない、あるいは否認するのだ。これは、そういうものを各人が本気で表現しはじめると、崩れかかっているシステム全体の虚構性があらわになってしまう恐れがあるからだと思う。表現する者はみな、既成の枠組みに装飾の一部として無理なく適合するように、「かわいく」なくてはいけないのだ。
あの映画を作った人たちが、普遍的な物語を作るという目的のために、在日朝鮮人の歴史(それは日本人の歴史と不可分なわけだが)や文化の固有性と全面的に向き合うような映画作りをしようとしたら、日本の映画会社は金を出さなかったのではないだろうか。崔洋一鄭義信は、そのことを分かったうえで、より多くの人たちに自分たちのメッセージを伝えるために、あるいはより力のある娯楽を提供するために、大きな舞台で作品を作っているのだろう。これは、思想であると同時に戦略の問題だ*1
血と骨』が、日本映画という枠組みのなかでは力作だ、というのはそういう意味だ。
先にも書いたように、最後まで見れば、この映画を作った人たちのメッセージはちゃんと観客に向かって投げかけられているのがわかる。
その伝える力がどれだけ十分だったかは、人によって受けとめかたがちがうだろう。

一番問題なのは何か

それでも、この作品の前半にぼくが不満をもったのは、日本の映画会社とか、日本の社会全体、文化全体のプレッシャーが、作り手たちにとって、それほど強かったことを示しているのではないかと思う。この作品は、よくもあしくも、いまの日本映画が要求する枠組みにきちんとおさまっている映画だ。そのなかで勝負しようとしているのだが、問題はこの枠組み自体が力を失ってしまっていることなのだ。
他者がもつ相対的な差異を回収して消費することが、国民国家や消費社会のやり口だとしても、いまの日本の問題はこのシステムそのものがシロアリに食われたみたいにスカスカになってしまっていることだ。そのことが、全然「自由」や「解放」につながっていないのである。
体験の固有性の表現を抑圧することは、映画に限らず、文化や社会のもつ生命力、すくなくとも体力を減退させてしまう。それは最終的に、そのなかで生きるすべての人間から、生きる力を奪うのだ。
他の国のことは分からないが、どうもぼくが生きているこの社会は、そういう傾向を強めている。『血と骨』という作品に関することよりも、ぼくにとってはそのほうが重要なことだし、腹立たしいことだ。

*1:むしろぼくは、『血と骨』の監督がもし深作欣二五社英雄だったらどうだったか、と想像してみた。これを日本人の監督が撮ったのなら、こんなに文句を言われなかったかもしれない。しかし、作り手がだれであれ、登場人物たちの体験の固有性を描かなくてはならないという要請は変わらない。