『血と骨』の感想

高槻の映画館で、公開の最終日に『血と骨』をやっと見た。
感想だが、この映画は前半よりも後半の方がずっといい。2時間半ぐらいある長丁場なのだが、終わりに近づくほどいいとおもえるのは、映画をつくった人たちの主人公にたいする視線と感情が、主人公が年老いて力をうしなっていくほどに明確になり、わかりやすくなっていくからではないだろうか。
映画の前半では、正直不満ばかりがつのったのだが、後半に入ると徐々に引き込まれていき、最終的に立派な作品だという感想をもつに至った。この映画にたずさわった人たちのひとかたならぬ苦労とエネルギーを感じ、これだけの作品をよくつくりあげたものだと、素直におもったのだ。
映画の最初の場面は、済州島から大阪に向かう客船の甲板を上空から撮影した場面である*1。映画好きの人にはわかるだろうが、この場面は、ギリシャの映画監督アンゲロプロスの作品を思い出させる。実際、このファーストシーンを、テレビのスポットCMでみたとき、ぼくはアンゲロプロスの作品の一場面だと勘違いしたほどだ。もうひとつ物知りめいたことをいうと、映画のなかで豚を解体する場面があるのだが、これも百年ぐらい前の北イタリアの貧しい農民の暮らしを題材にしたエルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』にでてくる、映画史上に名高い家畜の解体シーンを意識して撮られていることは、間違いないとおもう。ぼくは、さっき書いた冒頭のシーンをみた後だったので、広場に豚が引きだされてくる姿をみた瞬間に、この後どういうシーンがつづくのか、かなり正確に予想できた。
ここから想像がつくのは、作り手たちがこの映画を、普遍的な「移民」の物語としてつくろうとしているのではないか、ということだ。それは分かるのだが、どうも前半は画面から伝わってくるものがなかった。

しかし後半に入り、とりわけ娘役の田畑智子の葬儀で、主人公(たけし)が倒れるあたりから、この映画の魅力が増すようにおもわれるのは、繰り返しになるが、この「理解不能な」主人公にたいする作り手たちの目線と感情が、次第にはっきりとこちらに伝わってくるからだろう。
それは、この主人公の怪物的な生き方が、個人の意志ではどうにもならないような歴史や社会のひずみのあらわれであるという視点がはっきりしてくるということである。別の言いかたをすれば、このどうにもならない父親の生のあり方にたいして、距離感と愛情をこめた「息子たち」の眼差しが注がれるようになるのである。
いうまでもなく、こうした変化は主人公が年老いていくことと関係している。

主演のビートたけしは、おおむね等身大の演技をしていたとおもう。みているときは、それが不満だったが、だからこそこの映画は成功したのかもしれない。いくつかの場面で、一瞬だが、非常に印象的な表情をみせていた。名演といえるだろう。
先日からこのブログで「暴力」について書いているので、我田引水的にいうと、この主人公の暴力はまさに「神話的暴力」に類するものかもしれないが、ここでは中途半端な解釈は書かないでおく。それよりも、この作品での「暴力」の描き方は、特に息子と父親が競争で互いの家を破壊しあう場面などでは、なかなか面白い効果がでていたように思う。

ところで、この映画の主人公を見ていて、ぼくは自分の父を思い出すところがあったのだが、父は無論「金俊平」ほど怪物的ではない。この差はどこから来るのかとかんがえると、結局それは、「国家」との関係であろう。「国家」というものとの関係が、この破天荒でいい加減な男を、歴史の中で怪物に変えてしまったのではないだろうか?怪物は、まずなによりも、国家にとって怪物なのだ。
そういう父の生き様にたいする「息子たち」(作った人たち)の、愛情や尊敬をこめた思いが、この映画を支える柱になっていると思った。

それにかかわるかどうかわからないが、最後に書いておきたいのは、映画の最初にでてくる、済州島からの船上から主人公が望む大阪の遠景についてである。
大阪に住む自分にとっては、この土地の姿が「外から来る人」の目にはあのように映るということは、驚きをともなう発見だった。そして、ラストシーンでは、北朝鮮に帰国した主人公が、死の床でこの光景を回想するのである。
この「外からの眼差し」によって映画の最初と最後を結んだところに、この映画の作り手たちの観客へのメッセージが託されていることはたしかだろう。

血と骨 通常版 [DVD]

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*1:この船の名は、映画では「君の代丸」となっていたと思うが、史実では「君が代丸」が船名である。この船のことについては、金賛汀『異邦人は君が代丸に乗って』(岩波新書)(ただし絶版)という本に詳しく書かれている。