『オルタ』の対談を読んで

『オルタ』7・8月号の特集、「北欧神話?―グローバリゼーションと福祉国家」の冒頭に置かれた、市野川容孝と小川有美による対談から抜粋。
http://www.parc-jp.org/alter/2009/alter_2009_07-08.html

北欧と日本の「ソーシャルなもの」


北欧研究者である小川は、北欧諸国が19世紀以来置かれてきた条件のなかで「社会的(ソーシャル)であること」と「経済的な生き残り」を両立させる「社会的合理性」を追求してきたことを、まず強調している。
この「ソーシャルなもの(こと)」という表現は、この対談のなかでたびたび出てくるが、平等や福祉の精神、社会的連帯の実現といった意味ではないかと思う。
そのソーシャルなものに関して言うと、ナショナルな枠組みのもとで国民的な同一性を前提として平等と高福祉を実現してきた北欧諸国のあり方が、「社会に近い国家」(小川)という語で特徴づけられる。
そしてこの対談では、現在、グローバル化のもとでの移民の大幅な増加という状況に直面して、排他的な「福祉国粋主義(福祉ショービニズム)」(小川)が台頭する一方で、そうしたこれまでの国家のあり方が根本的に問われるようになってきていることが浮き彫りにされる。
それは、97年に起きた、過去のスウェーデンにおける優生学を背景とした強制不妊手術を問題視する報道に代表される動きで、市野川はここに、『福祉国家の持つ暴力性や排除性を問い直す』(p10)力の現われを見ているのだが、この動きは恐らくグローバル化と無縁ではないのだろう。


ここで市野川は、北欧で顕著になっているように、国民に平等と高福祉を提供する国のあり方、つまり「ソーシャルなもの」に重きを置く国のあり方は、どうしても同一性(したがって排他性)に傾きやすいことを強調する。
そして、『日本では20世紀に入って、植民地が国内の社会問題の打開策として浮上した経緯があった。』(p13)という事実に注意を促し、

国境を越えてソーシャルなものを開くことが、植民地主義と表裏一体だったことは、忘れてはならないと思います。(p13)


と述べている。
これは、戦前の農村部の貧困による国内の「難民」問題が、植民地への移住・開拓によって解決が図られたという歴史のことを指しているのである。
戦後においても、優生保護法による産児制限や南米への(棄民的な)移民事業、そして在日朝鮮人を差別しながら朝鮮半島に送り返すといった一連の政策に、植民地を失った日本が、限定された国土のなかで「過剰人口」という社会問題の発生を忌避しようとする(統治上の)強迫観念のようなものを見る市野川は、これが戦後日本国家の閉鎖性(外から人を入れたがらない)の底にあるものだと考えるのである。
これは大事な指摘だろうが、ぼくが思うに、人口の過剰が社会の流動化や不安定さを引き起こし、それが騒乱などの社会不安につながることへの警戒は、為政者と国民の意識が、近世から引き継いできたものではないかと思う。


さてそのうえで市野川は、そうした「ソーシャルなもの」(その国際的な拡大)がもつ危険性に注意を促しながらも、北欧と同様に日本も「ソーシャルなもの」を「ナショナルとは違う枠組みで」考え直さねばならない状況に来ている、と指摘するのである。
市野川は、ここでは特に在日コリアンの無年金問題参政権の問題を挙げながら、

一足飛びにグローバルとはいかずとも、内的国境をいろんな形で押し広げていくことはできる。(p15)


とも語る。
これは、「ソーシャルなもの」がはらんでいるナショナルな(排他的な)歪みを、北欧が行おうとしているのと同様に、自ら洗い落としていこうとする努力、と考えてよいだろうか。


また小川が紹介しているのは、移民問題についても環境などの問題についても、北欧の国々はEU全域に先述の「社会的合理性」の思考を共有して問題解決の努力を分かちあうことを働きかけていることである。他のEU諸国に、「お宅の国も移民や環境の問題の改善と、経済発展との両立を考えてくださいよ」と、率先して呼びかけてるわけである。
「内的国境」を押し広げることと同時に、周辺の国々への働きかけ、協調も、これからはいっそう重要になっていくだろう。歴史問題などさまざまな問題が未解決な日本に、その用意はあると言えるだろうか?

経済的生き残りの基礎


また小川は、日本で「北欧モデル」が語られるとき、労働市場の柔軟性による経済の成功といったことは語られるが、その背景にある「大きな政府」による公的な基礎インフラの整備については、あえて語られない傾向があることを指摘する。
公共部門による雇用創出や職業教育といったことが、北欧の経済的成功の背景にあるのであり、高福祉・高負担の「福祉国家」は自由市場経済とも両立するものであって、必ずしも「一九八四」(オーウェル)型の統制的・管理的な国家(そして政府による市場への介入)を意味するわけではない、というわけである。


話がそれるが、元来福祉国家の大きな目的は、再分配による所得の保障や、生活の安心の提供によって、人々の購買力と消費意欲を高めて内需を拡大するということにあった。このため長くヨーロッパでは、内需拡大による生産の増大が環境破壊を招くとして、「福祉国家は環境を破壊する」という趣旨の福祉国家批判が有力だったと聞いたことがある。
小川によれば「開放経済政策」をとってきた北欧諸国は、こうしたケインズ型の福祉国家(政府の積極的介入により雇用と需要を創出する)とは一線を画するようだが、それでも「大きな政府」のもとで高負担・高福祉の政策を行ってきた北欧の経済的な成功は、再分配やセーフティネット、さらに公的な雇用創出・確保のための支出といった公的部門の働きが、市場経済の持続的な発展・活動のためには不可欠であるということを、ある程度証明しているとも考えられよう*1
もちろん環境破壊につながるような経済成長では困るのだが、市場経済を健全に活性化させる基礎としての公的な部門の重要性が、日本でもあらためて見直されるべきときに来ているのではないだろうか。

*1:ただし、所得税や消費税の税率が高い一方で、資本の海外流出を避けるため法人税を低く抑えるなどの工夫がされているという。