右か左か分からない

昔からそうなのだが、ぼくはあるものが右に位置しているのか、左に位置しているのかということが、よく分からない。
どういうことかというと、たとえば誰かの家に行って冷蔵庫をあけて、ビールを取り出そうとしたとき、その家の人が「右の隅にあるよ」と言ったとする。この「右」というのが、ぼくにとっての右なのか、冷蔵庫というものにとっての右なのかが直観的に分からないのだ。
また、人と待ち合わせをして、携帯でいまいる場所を相手に詳しく教えようとするときに、正面にある目標になる建造物に対して自分が右に位置していると言うべきなのか、左に位置していると言うべきなのかが決められない。これも、基準を自分自身に置いていいのか、建造物の側に置くのかで、方向が正反対になってしまうからだ。このせいで、人になかなか会えない。
こういう場合は笑い話ですみそうだが、怖いのは他人が運転する車に乗っていて、自分しか知らない道をナビゲートする場合などだ。次の角を「右に行け」と言えばいいのか、「左に行け」と表現すればいいのかが、とっさに分からない。一般的な常識とは逆に言ってしまうことがよくある。これで運転者を慌てさせ、事故にあいそうになったことがあるのである。

昔、今日で使われている「右翼」「左翼」という言葉の由来が、フランス革命のときに議会で保守派が右に座り、急進派が左に座ったことにあると本で読んだのだが、それが議長から見てなのか、議員たち自身から見てのことかと、ずっとすっきりしなかった。最近分かったのだが、これは「議長から見て」であるそうだ。そう説明してもらうとありがたい。しかし、こういう説明がつけられるのは、やはりこうしたことが「自明」ではないからだろう。

心理学関係の仕事をしている知人の話によると、人間は小さいときから食事で箸を持ったりなどの経験をとおして、身体に関係づけて方向を把握していくのだそうだ。つまり、方向というのが自分の身体としっかり関係づけられていれば、上記のぼくのような混乱は起こらないそうなのである(これはたぶん、空間的な感覚全般についていえることではないだろうか?)。
ぼくの場合は、そういう身体的な習得がうまく行なわれなかったということであるようだ。
先日、ダブルバインド理論にふれて、対人関係にかかわる自分の心理のことを書いたが、方向にかんしても経験による基礎付けのようなことが、ぼくの場合にはうまくいっていないのだろうとおもう。