日本の自立と憲法9条

9条以外の憲法の条文を、まだちゃんと読んでいない。ぼくは、こういう目的のはっきりした勉強みたいなことが本当に苦手だ。
ただ、このところ『魂の労働』などの本を読んでネオリベラリズムということについて考えるようになり、今言われている「改憲」論が提案されたり支持あるいは容認される背景には、社会全体のそうした動向が深く関わっているのではないか、と思うようになった。ちゃんと情報を集めたり、社会の事柄について真剣に考えていれば、そんなことにはもっと早く気づくのだろうが、ぼくは今までピンと来てなかった。
これは色々な側面から考えられると思うが、たとえば9条に関して言うと、日本は自前の国防力と軍隊を持った「普通の国」、当たり前の独立国になるべきだ、という主張がある。そのためには、9条は邪魔になる、という言い方。これは「自立することが善である」という新自由主義的な価値観で色付けされている。かつてのような「自主独立」とか「愛国」といったスローガンとは、背景にあるイデオロギーが異なるということだ。
つまり、9条をなくして自前の軍隊を持とうという主張は、もちろん終戦直後からあったわけだが、それが社会の多くの人々の共感を得るための意味づけというのは、その時代によって違っていた。今日では新自由主義的な価値観がその意味付けの役を果たしており、かなりの人々の支持を得ている、と考えられる。



ところで、その9条についてだが、ぼくはこの条文を変えないということに、平和の実現につながるどんな重要な意味があるのか、まだ分からずにいる。というのは、自衛隊の存在はこの条文に明らかに違反しているから、自衛隊を撤廃しない限り、護憲の主張は憲法違反の勧めと変わらないことになる。しかし、いまただちに自衛隊という国防力を消滅させることが本当に可能だろうか?
言い換えると、そういう憲法違反の無理な状態を受け入れてまで、この国がこの条文を維持し続けることに、どんな意味があるのか。

9条の地域的な意味

だが最近、チャルマーズ・ジョンソンという米国の研究者の東アジア情勢についての意見を読む機会があった。そのなかでこの人は、9条について面白い見方を示していた。それは次のようなものだ。
「第二次大戦後ドイツは犠牲者に謝罪したが、日本はしていない」という意見は間違っている。日本は独自の仕方で謝罪したのであり、それが憲法9条の維持であった。したがって、今この条文を捨てるということは、国際社会、特に周辺の国々にとっては、謝罪の撤回を意味するのだ。


ぼくは、この見方は説得力があると思う。9条に限らず、日本国憲法については、それが戦後史のなかで日本人自身にどう受けとめられ、選択もしくは受容されたかという、主観的な議論や推論に陥ることが多い(ぼく自身もそうだが)。
だが、とりわけ9条に関しては、これは諸外国、特に日本から被害を被った周辺の国々にとってどのような意味を持つか、という視点から見ることが重要だ。
するとこれは、ぼくがこれまで9条を変えないことの根拠として言及してきたような「歯止め論」(日本が戦争をしないための最低限の歯止めとして働いてきた)だけでなく、地域の安定のために9条が果たしてきた国際的な役割ということを、もっと重視すべきだということになるだろう。


9条をもって、日本の謝罪や、またおそらくは賠償を代行するものととらえる、上記のような考え方は、護憲派というか、平和主義的な立場の人たちのなかにも異論を生じさせるだろう。9条さえあれば、公式の謝罪や補償をこれ以上行わなくてもよい、という判断になりかねないからである。
だが現実的に、9条がそれだけ大きな国際的(地域的)な役割を、特に今後の情勢のなかで果たしうるという考えは、魅力的なものだと思う。
つまり、戦争責任などについて「白黒をはっきりさせない」ということの代償を、日本が9条を維持することによって埋め合わせる、というこの地域独自の国際秩序のあり方が、考えられてもよいのではないか。
ジョンソンの指摘は、そういうやり方を、これまで現実にこの地域は選択してきたのだ、という見方を示しているのではないだろうか。

本当の自立とは

ここで、改憲論議ネオリベ的な自立のイデオロギーということに、話を戻す。
今の改憲論の有力な主張のひとつは、「自立した国家になろう」ということではないかと思う。9条を改正して自前の軍隊をちゃんと持てるようにしようという動きも、その現れであろう。
それから憲法全体に対しては、今の日本国憲法というのは、自分たちで作ったものではなく、アメリカから押し付けられたものだから変えるべきだという主張がある。これは、今では自民党の政治家だけでなく、平和主義的な考えの人の中にも、少なからず聞かれる意見である。
ところで、ここでぼくが気になるのは、この「自立」ということの中身、何からの自立なのか、ということだ。「自立」というからには、憲法を押し付けたアメリカの支配と庇護からの脱却を目指すということかと思うが、今日では、そんな反米的なことをいう日本の政治家はあまりいないらしい。
ここでいわれている「自立」とは、日本的なシステムから自立する、ということのようだ。「自分で軍隊を持たなくてもアメリカが守ってくれる」というような他者(アメリカ)への依存的な考えから脱却することが、今日の日本と日本国民には求められている、というわけだ。


この「自立」の観念は、新自由主義的なものというべきだろう。「会社や国の制度が守ってくれるとは思うなよ」ということだ。リスクには自力で対処せよ。その論理が、9条をめぐる論議にも適用されているのである。
そこで改憲か護憲かという対立は、新自由主義的な改革を実現しようとする勢力と、それに「抵抗」しようとする勢力との攻防と二重写しにされて見られることになる。まあ、たしかにそういう図式が当てはまりがちではあるが、憲法によって実現されるべき国としての自立ということは、こうした新自由主義的な(ロナルド・ドーアによれば「アングロ・サクソン的」な)意味合いだけでとらえられるべきではない、というのがぼくの言いたいところである。
なぜそういうかというと、日本の自立という事柄が、こうしたネオリベ的な意味合いだけで語られると、戦後の日本が過去においても現在においても、一貫してアメリカがその国際戦略に応じて定めた枠組みのなかにあるという、事実が見えにくくされてしまうからだ。日米安保とセットになった平和憲法も、米軍再編とセットになった9条改憲論も、共にその枠組みの中にある。
真に問題にされるべきは、その枠組みからの自立であろう。


ぼくは実際には、憲法9条が、戦後史の中でアメリカのアジアでの戦争遂行や、日本の経済的な収奪のための道具として機能してきた負の側面も、確かにあると思う。憲法9条は、そして日本国憲法は、つねに無罪であったわけではない。むしろ、それは血塗られたものであったかもしれない。
それは、この憲法が、一面ではアメリカのアジア戦略という大きな枠組みの中に存在し機能してきたからである。
だが今日、この枠組みは形を大きく変えて、9条の改正あるいは削除を要求している。本当の自立のために必要なのは、この大きな枠組みに抗うということであって、今は戦略上、9条を変えないことがそのために重要である。



たとえば第二次大戦後、多くの国々が、日本に対する戦争の賠償要求を放棄したのは、アメリカの力によるものであった。日本が本当にアメリカから自立した国家になろうとすることは、本当はこれらの問題が日本自身の責任においては解決されていないという事実に向き合うことを意味する。
アメリカが設定した枠組みから脱却して、自己の歴史の現実に直面するということは、日本にとっては恐ろしいことである。だが国家として自立するとは、そういうことなのであろう。そこに触れない「自立論」は、まやかしであると、ぼくは思う。
この道を選ぶ勇気を持たなければ、日本はアメリカの支配の下で、新自由主義的な「自立」の観念に呪縛されたまま、自分自身の歴史と現在からますます遠ざかっていくことになるだろう。