「恐るべき暴力」とは何か ―『告白』と『悪人』から―

最近、『悪人』と『告白』という、二本の邦画を見たので、それについて思ったことを書いておきたい。
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以下、完全なネタバレになるので注意してください。


まず『告白』だが、これまでの中島監督の作品と比べ、物足りない感じがあるとはいえ、見応えはあった。
とくに大詰めの、松たか子の演じる女性教師が、重要な役割を演じる男子生徒の携帯に電話してくる場面で、テレビのCMでも使われた「ドカーンって」と言う所などは、猥褻な魅力があって、もう一度見たいほどである。
ただ全体としては、壮絶な暴力が繰り返し描かれているのだが、その暴力の捉え方に不満が残る。
それを言葉にするには、まず私の考える(肯定的な意味での)「恐るべき暴力」というものについて、述べておかなくてはならない。


たとえば戦場におけるものとか、無差別殺人であるとか、猟奇的な犯行であるとか、それらは、それだけでは、ここで言う「恐るべき暴力」ではない。
戦争におけるような大規模な暴力にしても、それはたんに非人間的な破壊ということであって、それが「我々と同じ人間」によって引き起こされるものだという一事を除くなら、我々の人間に対する(ということは自分たちに対する)捉え方の枠組みを揺るがすという意味での「恐るべき」ものではないのだ。
肯定的な意味で「恐るべき暴力」と呼ぶべきだと私が思うのは、「人間」(つまり我々自身)についての認識を覆しかねないような暴力のことである。


その定義からすると、『告白』に描かれた暴力は、陰惨で常軌を逸したものに見えても、すべてそれなりの「意味づけ」がされている。
言い換えれば、どの暴力にも、よくよく探ればそれぞれの理由や心情や事情があったのだ、という描き方になっている。
その意味で、それは了解可能な枠のなかに収まるものであり、我々にとっての「恐るべき暴力」ではないのだ。


たとえば、二人の男子生徒が女性教師の幼い娘を殺すのは、いくつかの表面的な動機もあるけれども、根底には少年たちの母親との固着的な関係がもたらす「空虚」という心理的な理由があると考えられる。
もちろんそれらは、残虐な行為の理由としては、あまりにとるに足りないものである。
だが、それらが殺人の理由としては、我々に到底納得できないものであるとしても、「空虚」によって意味づけされた瞬間に、それは我々にとって「了解可能なもの」の圏内に、実は入りかかっているのだと言える。


我々が「動機なき(殺人)」とか、「理不尽な(犯行)」とか言う場合には、実はその言葉によって、その底に心理学的もしくは社会構造的な「理由」があることが期待され、暗に想定されているのだ。
一見我々(一般市民)が理解できないように見えるこの暗闇(空虚)の指示は、それに由来する行為が、我々の了解可能性の圏内に、実はあらかじめ組み入れられていることを示している。
あとは、これを完全に「我々の」圏域に組み込むための手続き、つまりコミュニケーションの変容が、「暴力」という方法から、それを(洗練したり、もしくは突き詰めることを通して)言語的な真の了解可能性の方へともたらす変容が行われるだけでよいのである。
『告白』という映画のストーリーが示しているのは、この「手続き」なのではないかと思う。


女性教師が少年たちに対して振るうことになる暴力は、(最後のシーンで「なんてね」という台詞によって、一応宙吊りにされるのだが)「空虚」に由来する「理不尽な」暴力への「報復」として、この少年たちの暴力を、了解可能性の圏内(言語的なコミュニケーションの可能性)に正しく復帰させようとするものだと考えられる。
つまり、女性教師の側の暴力も、「報復」として意味づけされるものであり、やはり潜在的に了解可能なもの、いわば「人間化された暴力」としてだけ描かれている。
要するにそれは、「恐るべき」ものではないのだ。


理不尽で、一見この社会の外にあるかと思われた暴力が、憎悪や復讐感情のぶつけ合いによって最終的に社会のなかに収まるのであれば、それは和解が成立したということでもあり、それでいいではないか、と思えるかもしれない。
だが問題は、暴力を(潜在的に)了解可能なものとしてだけ捉えることによって、暴力の(したがってそれを振るう人間の)「恐るべきもの」(ただしあくまで、我々にとっての「恐るべきもの」だ)としての側面が否認され、我々の日常の領域の外に、いわば締め出されるということである。
それは、人間というものの捉え方を、根本的なところで縮減してしまう。


この作品に込められたメッセージは、普段の生活のなかで抑圧されている(「空虚」から生じる)孤独や憎悪をぶつけ合うことによって、いわばその率直な暴力のやりとり(交換)を通して、全員を包み込むような新たな社会を作っていこう、ということだろう。
だが、はじめから暴力が、その「恐るべき」という性格を抜き取られ、「人間化」された上で、どれだけ憎悪や報復によって(言語化に向かって)対立が突き詰められようと、それは我々の「自分たち」についての認識の枠組みを揺るがすことはない。
この対立と、憎悪及び暴力の交換は、当初から閉じられ限定された場所で行われていて、その限定を脱する契機を失っている。
つまりこの映画の暴力の描き方は、意外に底を割っていないのだ。
それは、ローカルなものの枠に留まっていると、私は感じる。


これは、暴力が、あるエコノミーのなかにある、という言い方も出来ると思う。
たとえば、中心的な役割を演じる男子生徒が、恋愛に近い関係になった女子生徒を殺す挿話があるが、この殺人の理由は、容易に了解できるものだ。
それは、少年の少女への愛情が、自愛(母親への固着の投影)としての部分が濃厚で、それが少女に対する他愛の部分を上回ったからである。
そういうものとして理解可能なのだから、我々(社会)の側がなすべきことは、この欠落を埋めてやることであり、それだけで我々の安定は保たれるのだ。
こうして暴力は、あくまで我々の社会の総和を崩さないものとしてだけ捉えられることになる。




だが、『悪人』に描かれた暴力、とりわけそのクライマックスで主人公(妻夫木聡)が、深津絵里の演じる女性に振るう暴力は、そういうものではない。
あの暴力の理由は、私には充分理解することができないが、ひとつ言えることは、それが「自愛」ではなく「他愛」(つながりへの意志)に由来するものだということである。
映画を見た人は誰でも強い印象を受けただろうが、灯台から見える海を背景にして深津の演じる女の語る台詞を受けて、主人公が、非常に苦しげに、「あなたに会うまでは、自分が殺人を犯したことを、悪いとは思っていなかった」と言う場面がある。
その苦しさが、主人公を、あの暴力へと追いやったのだろうか?「他愛」とは、自分の全てを相手にさらけ出しぶつけることだとしたら、それがああいう形をとらざるを得ないほどに、彼の存在の空虚と苦悩は深かったのか?


ともかく、たしかなことは、ここでは暴力は、たとえば何らかの「空虚」に由来し、その欠落を埋めるために為されるような、エコノミー的な行為ではない、ということである。
暴力が人間のため、「内部」の人間たちの交換のための手段として理解されるのではなく、逆に暴力から人間のぎりぎりの姿が照らし出されている。
その瞬間、その人においては、暴力という形でしか愛が表現されないというような、社会からはみ出し同時に社会の根底を成しているものとしての、人間の逆説的な姿が露呈している。
ここには、「他愛」が暴力(殺人)という形をとってしまうような、「暴力の逆説性」、いや、(そうした暴力を振るう)人間というものの逆説的なあり方(縮減されない生)が、描き出されているのである。
この逆説として見出された暴力こそ、「我々」にとっての「恐るべき」ものなのだ。
そしてこれは、ローカルな限定を超える、ユニバーサル(普遍的)な関係の可能性に関わることだと思う。
この暴力は、懐かしい場所から愛と共に到来して、閉じ込められた我々を打つ。




『告白』に戻れば、あの映画では、決して「人間化」されないような暴力のあり方、いや、「他愛」の極限においてそれが「暴力」という形をとることも(不幸にして)ありうるという人間の「逆説性」というものが否認され、我々の圏域の外に締め出されていたと思う。
こうした逆説性は、またその直接の表れとしての「暴力」(そして愛)は、「我々」にむしろ先立つもの、我々の形成を可能にしているものだろう。
そうしたものを否認し、外へと締め出すことによって、このローカルな圏域は完成される。だがそのとき、ユニバーサルな領域に関わる可能性も、同時に閉ざされるのである。


だが、私はこの「ローカル」なものが、ユニバーサルな関係性、つまり人間の逆説性に関わる関係のあり方に、まったく通じていないとは思わない。むしろ、私自身は、この「ローカル」の底を割っていくような行き方のほうが好きなのだ。
現に『告白』の中島監督のこれまでの映画、『嫌われ松子の一生』や『パコと魔法の絵本』では、その可能性に近づいていたのではないかと思う。
今回の映画では、それらの映画を見たときのような感動が得られなかったことが、残念だ。