「暴力性」を考え直す その2

ベンヤミン論、やりなおします!

きのうの文章でベンヤミンの論文『暴力批判論』の要旨を紹介・検討したが、あらためてかんがえてみると、ベンヤミンがこのなかでのべている「神話的暴力」と「神的暴力」という暴力の両義性の分析は、たいへん重要で現代的なものをふくんでいるとおもう。きのう書いた要約は、正直、あまりにもおざなりであったというしかない(終わりまで読んでくれた人には、申し訳ない)。
そこで、ドゥルーズ=ガタリの議論についてかんがえるまえに、もうすこしベンヤミンのこのかんがえの周囲にたちどまってうろうろしてみることにしたい*1

「手段としての暴力」への徹底的な批判

さきにものべたように、ベンヤミンが、「神話的暴力」と「神的暴力」という暴力の根源的で両義的な相をみいだすのは、国家を構成する法的なものの見方、考え方の「外」にでて、暴力をとらえようとした結果だといえる。
法的な視点、つまり国家の目線でとらえられた暴力とはどんなものかというと、結局は、権力を確立したり維持したりするための「手段」としての暴力、ということだ。これは、国家や大きな権力がふるう暴力だけではなく、権力に反対する側や個人がふるう暴力にも、そのままあてはまると、ベンヤミンはかんがえる。民衆や個人のふるう暴力は、それ自体がいまある国家のものとは異なるあらたな「法」をつくりだしてしまうからこそ、国家はそれを禁止し人々から「暴力を用いる権利」をうばうのだ、というわけだ。
つまり、ベンヤミンにおいては、国家の暴力と個人の暴力とは、それが「手段」としてみられるかぎりはなんら違いがないということになる。

『この種の暴力のすべてには、法を措定する性格が付随している。』(p39)

『したがって手段としての暴力は、どんな場合でも、法一般の問題を分けもたざるをえない。』(p45)

あらゆる(議会制民主主義を含む)法制度と国家の根源的な暴力性を告発し、同時に民衆の革命的な行動や日常における個人の暴力をふくむ、すべての暴力行為に法や国家との同根性をみいだすベンヤミンの暴力批判は徹底的なものだ。さきにのべた非暴力的な紛争解決の技術としての「話し合い」という提案をかんがえても、また、アナーキズム的な抵抗の方法論をそれが「非暴力的」であるという理由によってたかく評価していることをかんがえてみても、暴力になんらかのポジティブな可能性、国家に代表される権力による支配のシステムにとりこまれない可能性を、ベンヤミンがみとめるとはかんがえられなくなる。

ベンヤミンは「可能性としての暴力」をみつけようとした

だが、アナーキズム的な革命理論(ソレルという人の考えらしい)を「非暴力的」であると理由をつけて救済していることからも推量できるように、ベンヤミンのこの論文のほんとうの狙いは、暴力の概念を批判し分析することをとおして、国家や支配的な権力の枠組みに回収されないものとしての暴力を発見しようということ、いいかえれば暴力を権力の「手段」という地位から解放しようということである。
ここまでのベンヤミンのするどくきびしい暴力批判は、じつはそうしたいわば、「可能性としての暴力」をみつけだすために、実際の世界のなかで暴力にまといついている国家や権力の仕組みの要素をうきあがらせるための作業だったのである。これだけ徹底的な批判をやらなければ、国家装置に回収されないようなものとしての暴力をみいだすことは不可能だと、ベンヤミンはかんがえたのだ。

「根源的に」暴力を考えてみると

ここからベンヤミンは、法律という国家による思考の枠組みによってはとらえられない、もっと根源的な暴力の姿にせまろうとする。根源的だという意味は、じつは国家というものは暴力を起源としているわけだから、これは国家そのものの根源にせまる思考であるという意味が、ひとつ。もうひとつは、このことはベンヤミンは語っていないが、哲学的な思考というものがもともと国家の存在と不可分なものなので、これは哲学とか法学といった学問・思考のあり方の根っこまでも危うくするような考察になるということだ。
さて、では国家の枠組みの外で暴力をかんがえるなら、暴力はどのようにみえてくるだろうか。ここでやっと「神話的暴力」についてかんがえることができる。ベンヤミンは、国家の枠組みでとらえられる以前の、「可能性としての」暴力の姿を、「神話的暴力」という概念によってあらわすのである。
くどくどと申し訳ないのだが、もういちどおなじ長文を引用させてもらう。

『ここで問われているような、媒介的ではない暴力の機能は、日常の生活経験からも知られる。人間についていえば、たとえば憤激は、予定された目的に手段としてかかわるのではない暴力の明白きわまる爆発に、かれをみちびく。この暴力は手段ではなくて、宣言である。しかもこの暴力の行なう宣言はまったく客観的なものであって、それを批判にさらすことも可能だ。この種の宣言のもっとも含蓄のあるものは、何よりも神話のなかに見られる。』(p55)

「神話的暴力」は、じつは国家の起源にあるような暴力の姿である。それはこういってよければ、純粋な暴力の行使だ。それ自体は、その行使によって権力を確立することを目的としないのだから、「手段」ではなく、むしろ反権力とか生命に関係するものだといえよう。
つまり、

『この暴力はほんらい破壊的ではない。』(p56)

しかし、この純粋な暴力の行使が、結果としては神の領域と人間の領域とのあいだに「境界設定」をおこなってしまうことを、ベンヤミンはみとめる。それが神話における神々の暴力の意味というか、もたらすものであり、じつは「法措定的暴力」の原型でもあるというのである。この「神話的暴力」の構造が「国法」に適用されることにより、現行の法措定的暴力一般が存在しているのだ、とかれはいう。
こうして、国家装置と国家権力の根源(基盤)としての暴力のメカニズムは、さきの「手段としての暴力」に関する法哲学的な考察よりも、よりふかい(根源的な)レベルで把握されるのだ。

「神話的暴力」にたいするぼくの疑問

ここで注意したいことは、ベンヤミンが「神話的暴力」について、それが結果として法措定的にはたらいてしまうことは批判するけれども、神々の暴力が実際に生命を傷つける「血みどろ」のものであることは不問に付しているという点だ。

『ところで、暴力は不確定で曖昧な運命の領域から、ニオベにふりかかる。この暴力はほんらい破壊的ではない。それはニオベの子らに血みどろの死をもたらすにもかかわらず、母の生命には手を触れないでいる。ただしこの生命を、子らの最期によって以前よりも罪あるものとし、だまって永遠に罪をになう者として、また人間と神々とのあいだの境界標として、あとに残してゆくのだ。』(同上)

ギリシャ神話についての素養がなく、またベンヤミンの悲劇や運命についての初期の考察も理解していないぼくには、なぜどういう意味で、この『血みどろの死をもたらす』暴力が『破壊的ではない』といわれるのか、よくわからない。
それは、それもおそらく国家的・近代的な思考の産物であろう「人間的」という価値観や生命観の外で、この暴力がかんがえられているからであろうか。「可能性としての暴力」をかんがえるということは(ぼくにはそれは重要なことだとおもわれるのだが)、「血みどろの死」を「破壊的でない」といいきれるような場に立つことを必要とするようだ。これは、たやすいことではない。

可能性の核心としての「神的暴力」

いずれにせよ、現実のなかでは、「神話的暴力」の行使は、かならず権力の確立(「境界設定」)を帰結するとかんがえられる。では、神々のあの気まぐれで純粋な暴力が、「可能性」のままにとどまりつづけること、国家装置の外側に存在しつづけることは不可能だろうか。ベンヤミンはここで、「神的暴力」という概念をとりだしてくる。これは、「神話的暴力」に対立するものだとベンヤミンは言っているが、厳密にいうと、神話のなかの神々のあの暴力が「可能性」(つまり、国家に対する外部性)のままにとどまった姿をしめすものだとおもわれる。つまり、「神的暴力」は「神話的暴力」の純粋な、あるいはポジティブな側面の呼び名だ、ということになる。根源的なところで考察された暴力は、「神話的暴力」という姿で見いだされたわけだが、この「神話的暴力」は「神的暴力」という可能性の核心をもつということだ。
この両者の対比が、じつに興味ぶかい。

『神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。』(p59)

この「神的暴力」という理念が、国家権力からの解放をめざすマルクス主義アナーキズムの存在を視野にいれた、政治的な含意をもつものであることはたしかだ(この論文が書かれたのは、1920年代のはじめである)。しかし、この理念自体の性格は、それが根源的であるゆえに、すくなくともぼくたちが知っている「政治」とはいささか縁がとおいようである。
それが宗教的なニュアンスを色濃くもつこともたしかなのだが、同時にぼくは、ドゥルーズ=ガタリが「戦争機械」の歴史上の形象として『千のプラトー』のなかで描く「遊牧民」の原型のひとつをみる思いがする。それは、国家装置と国家に根ざす思考の外側にあるような、生命の力のあらわれといえばいいだろうか。それがなぜ、「暴力」や「戦争」という形態をとるのかについては、ちかく別にかんがえてみたい。

ベンヤミンは「人間」をこえるような視点にたとうとした?

さしあたってここで重要なことは、法を破壊する「神的暴力」には血の匂いがないといわれている、その理由である。正確にいうとこの暴力は、血をながすけれども「無血的」である、とベンヤミンはいうのだ。

『というのも、血はたんなる生命のシンボルだからだ。』(p59)

ベンヤミンは、「可能性としての暴力」の核心である「神的暴力」の非権力性、あるいは非破壊性を主張するために、「たんなる生命」よりも高い価値の存在を示唆するかのようである。

『この神的な暴力は、宗教的な伝承によってのみ存在を証明されるわけではない。むしろ現代生活のなかにも、少なくともある種の神聖な宣言のかたちで、それは見いだされる。完成されたかたちでの教育者の暴力として、法の枠外にあるものは、それの現象形態のひとつである。したがってその形態は、神自身が直接にそれを奇蹟として行使することによってではなく、血の匂いのない、衝撃的な、罪を取り去る暴力の執行、という諸要因によって――究極的には、あらゆる法措定の不在によって――定義される。』(p60)

ここで、ベンヤミンが「神的暴力」という理念によって、現実にはどのような事柄を本当は意図しているのかが、少しあきらかになってくるのではないだろうか。それは、ある種の暴力の行使によって血がながされ、破壊がおこなわれたとしても、それは「たんなる生命」にだけかかわることでたいしたことではないのだ、といってしまえるような、世界の現実にたいして超越的な倫理的立場を擁護し保持するということなのだ。
この立場にたつことで、ベンヤミンは革命の破壊的行動をある部分是認しようとする。
この立場は、先にふれた、「人間的」な価値観をこえるような生命にたいするとらえかたと、ベンヤミンのなかではかさなっているのだろう。
「神的」とは要するに、人間の範疇をこえているということである。「人間」という価値の基準そのものが、国家に根ざす思考のありかたにその発祥地をもっている以上、国家に回収されないような暴力の可能性は、「神的」な、「人間的」ではない領域においてかんがえられるしかないのである。

ベンヤミンの暴力論は、生命についての「人間主義」をこえるとらえ方の必要性を、ぼくたちに提起しているのではないだろうか。

*1:なお文章や語句の引用は、きのうと同じく

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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