「自分で語ってみる」ことをめぐって

『Freezing Point』さんの、こちらのエントリーは、ぼくにはたいへん重要なことが書かれていると思われたので、紹介しながら、自分の考えも書いてみたい。


「本人が、自分で語ってみる」


もちろん、ueyamakzkさんが書かれている趣旨とは大きくずれてしまうところが多いだろうから、くれぐれもそちらのエントリーの方を、より精読していただきたい。

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ぼくが感じてきたこと、そして

『親を介護するということ』と題した先日のエントリーのコメント欄に、tu-taさんが寄せてくださったコメントへのレスとして、「困難な現実のなかに身を置いている自分」という立ち位置から考えること、発言することが大事だと思うが、ぼくにはそういう自分の状況を自覚すること、意識することが難しいのだ、という意味のことを書いた。
もっと正確にいうと、「困難な現実のなかに身を置いている」ということは分かるのだが、それが「自分」というものと、はっきり結びつかない、ということである。


これは、自分の置かれている現実の困難さを、社会の構造的な矛盾とむすびつけて考えることができない、という意味ではない。社会に矛盾があること、是正されるべき、あるいは改善されるべき事柄があることは分かっている。また、そのことと、(自分が)身を置いている現実の困難さが、あるいはつながっているのかもしれない、少なくとも何のつながりもないとはいえないだろう、ということも思う。
そのように思うことが、つまり「自分の苦難」だけから発して社会のあり方の変革なり何なりを主張するということが、社会や他人に関わっていく動機として十分なのかどうかということは疑問だが、ともかく「身を置いている状況」と「社会全体のあり方、問題」とのつながりということは意識しているのだ。
結びつかないのは、そうした個人的でもあり全体的でもある「現実」と、「自分」というものとである。だから、その位置から何かを考え、述べるべきであると分かっていても、それが出来ない場合が多い。要するに、自分のことを自分のこととしてとらえにくいし、語りにくい。
その感じは、ぼくにはいつもあったし、今もある。
しかし、これはそんなに特異なことだろうか?

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サバルタン、もしくは複数的な私

mojimojiさんがsivadさんの記事に応答された、こちらのエントリー、そしてお二人の対話を、たいへん興味深く読ませていただいた。
とくに、「想像力」のある人とない人がいるのでは、というsivadさんのお話、そして「ない人」を組み込むような社会の倫理的な枠組みを作っていく必要があるのでは、ということは、ぼくも以下のエントリーなどで書いてきたと思う。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070430/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070501/p1


じつはこのところ、ぼくもそういう立場から、何か新たに文章を書こうと思っていたのだが、同時に、自分のその考えの枠組みに納得できない面もあり、考えあぐねていた。
「納得できない面」という意味は、こういうことである。
ぼく自身は「想像力がない」という部類に入る人間であり、今回のエントリーでも引かれている、「倒れているホームレスの人のそばを通り過ぎる」というような場合にも、その通り過ぎるという行為をわりあい平然と行うことが大半である。そして、それが「見殺しにする行為」であるという認識があっても、その事実の重さは自分のなかで「括弧」に入れて、深く考えないようにすることに、困難をさほど感じない。
ただ、まず自分がそのように振舞っているということを、正当化するということ(その不自然さ)が不快である。また、そのように他人の生死に対して無感覚(冷淡)である現在の自分の態度を不問に付す、自分にとっての「自然」であるかのように受け入れることに、「どこか違う」という感覚を持つ。言葉にすれば、「それはこの自分ではない」という感覚といえばよいか。
いっぽうでたしかに、このような事柄について正面から考えることには、非常な抵抗(重苦しさ)を常に感じる。だからこそ、せめてその「重苦しさ」を(「この自分」であるために)手放したくはないと思う。なぜなら、そこで見出される「この自分」の方が、他人の生死に関わることを括弧に入れて生活している「自分」よりも、身近なものに思えるときがあるから。
そういったことなのである。


今回のmojimojiさんのエントリーは、そうしたことの核心の部分を浮き彫りにする内容であったと思う。
たしかに、「想像力のある人」「ない人」といった差異によって、人々をそれぞれの「自己」に分けてしまうということは、それは「リベラリズム」の立場になると思うのだが、人が人と関わって生きているうえでの、もっと根本的な相を見失わせる怖れがある。
このエントリーでは、それが「呼びかけ」という言葉によって示されているのだろう。
ぼくはそれを、「生の複数性」とか「土台のような場所」という言葉で言おうとしてきたが、もちろん舌足らずの表現である。


ここでとくに強調したいことは、「呼びかけ」は、本来「聴取不可能性」といえるものを本質として持っているのではないか、ということだ。
これは、「他者」というもの、「他者の呼びかけ」ということを、どう考えるかということに通じる。
上記の仮定の事例において、このホームレスの人が「助けてください」と声に出して呼びかけたのなら、問題は、これほど複雑にならない*1
声を出す力もない状態で横たわっている、それが肉体的な消耗によるものなのか、精神的・社会的とよべるダメージによるものなのか分からないが、ともかく他人に物理的なメッセージを送れる状態、その意志を持ちうる状態にもない、瀕死の人がここにいる。
その人の、「声」をどう聞き取るか、である。
これはよく、野宿者支援の現場にいる人に聞く話であるが、そして他のさまざまな支援や医療の現場で日常的に生じていることだろうが、「助けないでくれ」「救急車など呼ばず、このまま死なせてくれ」という瀕死の人たちは多くいるという。その人たちの声を、どう聞き取るかということ、それが「他者の呼びかけ」に関する問題の核心にある。


ちなみに、こちらのt-hirosakaさんのエントリーも、その困難で重要な事柄に関して語られているものだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20070528#1180321059


ぼく自身はよく知らないが、言葉を持たない他者といった意味で、「サバルタン」という言葉があるそうだが、他者にどう対するかということは、根本的には、その人のなかの「サバルタン」をどう遇するか、ということになるのではないかと思う。
見知らぬ人の中にも、家族や知人のなかにも、そしておそらく、自分自身のなかにも、「サバルタン」はいる。リベラル的な個への分割によって、声を封じられ眠らされ黙り込まされた「サバルタン」、別の言い方をすれば、「複数的な私」を、どうすくいあげるか。
根本的なテーマは、それであるべきではないか。


ただ、こうした一見神秘的な物言いは、おうおうにして、「声なき声を聴く」(岸信介)といった権力や体制側の論理に利用されがちであることには、注意が必要だろう。

*1:いや、本当は複雑なのだが、それは表面から消える

救うことと「能力」の問題

こちらのエントリーでは、「直接的な支援」とか「間接的な支援」とか、やや曖昧なことを書いた。
そして、自分には前者は難しいが、後者の方法で何か有効にできることはないか探っていきたい、というふうなことを書いたのである。
そこを出発点として、そのエントリーも書き、その後いくつかのエントリーを書き継ぐことにもなった。
だが、「直接的な支援(行動)」が難しいことだという自分の言葉の背景にあるのは、どういう意識や気持ちか。そこをちゃんと言っていなかった。それを少しだけ書いてみたい。


ぼくが思っているのは、人を救うということには「能力」が必要である、ということだ。
「能力」といっても、色々に考えられる。身体的な能力、思考力、決断力、活動をする上での協調性のようなものもそうだろうし、時間が自由になるという条件や金銭面なども社会的な「能力」と考えると、じつにさまざまな「能力」が考えられる。
それらは、いずれもあるに越したことはないものだろうが、もちろんすべてを持っている人は稀だろうし、そうである必要もないといえる。みな、自分のできることを、補い合って、ということだろう。
しかし、「他人を救うための直接的な行動」に関していうと、必須ともいえる能力があると思う。


それは、他人に対する「感受力」、「共感する能力」のようなものであり、もっと広義に、というか別の言い方をすると、他人とのコミュニケーションにおける基礎的な能力である。
この能力が乏しいと、「他人を救う」という行動には向かない。そう言えるのではないかと思う。
しかし、ぼく自身がそうであり、もちろんそう思っているから上のエントリーのようなことも書いたわけだが、この能力に問題のある人が、社会のなかで増えているように思う。少なくとも、いつの時代でも社会のなかに一定数の、そうした人が存在するだろう。
この人たちは(ということは、ぼくのような人は)、もっぱら「他人を救う」ことについて、どのようなスタンスをとるべきか、というのが、ぼくの考えたいことなのだ*1


「そういう人は、もともと他人を救いたいと、本心からは思わないのではないか?」と言われるかもしれない。
だが、自分の感覚に問いかけてみて、「困窮した他人を救う」ということが、自分が生きるということの核心をなす「欲望」とさえ思える、ということを、このエントリーに書いた。
とすると、ぼくのようなタイプの人間でも、ある意味では「本心から」、他人を救うために何か行動をしたいと思っている、少なくとも「本心から」そう思うときがある、ということなのである。
そのときに、自分がもっぱら「間接的な支援」にしか関われない、関わらないということを、「直接的な支援」に関わっている人たち、つまり「感受力」のすぐれた人たちへの否定的な感情を生じさせないような形で、また開き直りになることもなく、どう認めて肯定するか。もしくは肯定できるのか。
そういうことを考えたかったのである。
また一般的に考えても、今の社会では、こうしたことを考えるのは、意味の小さなことではないとも思った。


まあそういったことなのだが、ぼくが今思っているのは、ひとつには、「他人を救いたい」という気持ちのある全ての人が「直接的な行動」に関わる必要はないかもしれない、ということ。
もうひとつは、「感受力」を持っている人の数が、ぼくが思っているように減ってきているのだとすると、たとえば(医療や福祉などに関わる)労働現場において、そうした能力も労働力の価格算定の基準のひとつとして、もっと重視されるべきではないか、ということだ。
この二つとも、異論のある方が少なくないかもしれないが、いま率直にはそう思っている。

*1:そういった「感受力」のようなものは、「直接的な支援(ケアなど)」を通して、現場で育まれる、あるいは回復できるものだ、という言い方がある。しかし、それが本当のことなのかどうか、ぼくにはよく分からないし、他人をケアするということに本人にとっての一種の効用を見出すような、そういう言われ方そのものにも疑問がある。

基本的ないくつかのこと

あまり複雑なことを考えられないので、以下で基本的なこと、大まかなことだけを確認しておきたい。
もちろん他にもこうしたことを述べている人*1はいるのだが、ここではできるだけ自分の頭で考えてまとめてみる。

*1:立岩真也氏など。もちろん、はるかに厳密な思考と言葉によって。

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先のエントリーへの補足・実効性について

上に「直接的に、明白に実効性のあること」と言ったが、この二つは、必ずしも両立しない。


これは、日々「直接的に」現場でそのような活動に取り組んでいる方の多くが、感じ悩んでおられることではないかと思う。あのエントリーにも書いたように、一人の地道な活動より、大物政治家の決断や、大金持ちの寄付や、大企業や科学者の業績のほうが、人を救うにははるかに実効性がある場合がある。


だから、ぼくが「間接的」な行動について「微力だ」と書いたのは、実効性のことを言ったのではない。

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