救うことと「能力」の問題

こちらのエントリーでは、「直接的な支援」とか「間接的な支援」とか、やや曖昧なことを書いた。
そして、自分には前者は難しいが、後者の方法で何か有効にできることはないか探っていきたい、というふうなことを書いたのである。
そこを出発点として、そのエントリーも書き、その後いくつかのエントリーを書き継ぐことにもなった。
だが、「直接的な支援(行動)」が難しいことだという自分の言葉の背景にあるのは、どういう意識や気持ちか。そこをちゃんと言っていなかった。それを少しだけ書いてみたい。


ぼくが思っているのは、人を救うということには「能力」が必要である、ということだ。
「能力」といっても、色々に考えられる。身体的な能力、思考力、決断力、活動をする上での協調性のようなものもそうだろうし、時間が自由になるという条件や金銭面なども社会的な「能力」と考えると、じつにさまざまな「能力」が考えられる。
それらは、いずれもあるに越したことはないものだろうが、もちろんすべてを持っている人は稀だろうし、そうである必要もないといえる。みな、自分のできることを、補い合って、ということだろう。
しかし、「他人を救うための直接的な行動」に関していうと、必須ともいえる能力があると思う。


それは、他人に対する「感受力」、「共感する能力」のようなものであり、もっと広義に、というか別の言い方をすると、他人とのコミュニケーションにおける基礎的な能力である。
この能力が乏しいと、「他人を救う」という行動には向かない。そう言えるのではないかと思う。
しかし、ぼく自身がそうであり、もちろんそう思っているから上のエントリーのようなことも書いたわけだが、この能力に問題のある人が、社会のなかで増えているように思う。少なくとも、いつの時代でも社会のなかに一定数の、そうした人が存在するだろう。
この人たちは(ということは、ぼくのような人は)、もっぱら「他人を救う」ことについて、どのようなスタンスをとるべきか、というのが、ぼくの考えたいことなのだ*1


「そういう人は、もともと他人を救いたいと、本心からは思わないのではないか?」と言われるかもしれない。
だが、自分の感覚に問いかけてみて、「困窮した他人を救う」ということが、自分が生きるということの核心をなす「欲望」とさえ思える、ということを、このエントリーに書いた。
とすると、ぼくのようなタイプの人間でも、ある意味では「本心から」、他人を救うために何か行動をしたいと思っている、少なくとも「本心から」そう思うときがある、ということなのである。
そのときに、自分がもっぱら「間接的な支援」にしか関われない、関わらないということを、「直接的な支援」に関わっている人たち、つまり「感受力」のすぐれた人たちへの否定的な感情を生じさせないような形で、また開き直りになることもなく、どう認めて肯定するか。もしくは肯定できるのか。
そういうことを考えたかったのである。
また一般的に考えても、今の社会では、こうしたことを考えるのは、意味の小さなことではないとも思った。


まあそういったことなのだが、ぼくが今思っているのは、ひとつには、「他人を救いたい」という気持ちのある全ての人が「直接的な行動」に関わる必要はないかもしれない、ということ。
もうひとつは、「感受力」を持っている人の数が、ぼくが思っているように減ってきているのだとすると、たとえば(医療や福祉などに関わる)労働現場において、そうした能力も労働力の価格算定の基準のひとつとして、もっと重視されるべきではないか、ということだ。
この二つとも、異論のある方が少なくないかもしれないが、いま率直にはそう思っている。

*1:そういった「感受力」のようなものは、「直接的な支援(ケアなど)」を通して、現場で育まれる、あるいは回復できるものだ、という言い方がある。しかし、それが本当のことなのかどうか、ぼくにはよく分からないし、他人をケアするということに本人にとっての一種の効用を見出すような、そういう言われ方そのものにも疑問がある。