どうもうまくまとめられない私

昨日のエントリーだが、どうもうまくまとめることが出来なかったので、補足しながら改めて考えてみる。
『何も出来ないわけではない私』


ここでぼくが書きたかった最大の要点は、本質的な差異はどこにあるのか、ということである。
ぼくたちはよく、というか真面目に考える人ほど、直接的に、明白に実効性のあること(支援、救済、介護など)をリスクをおかしてでもするということと、それに比べれば間接的と思われる仕方でそれらの(他人をめぐる)問題に関わることとの間に、大きな差があると考えがちである。だが実際には、この両者の間の差異は、他人のために「何かをやる」ということと、「何もやらない」ということとの差異に比べれば、本質的な差異ではなのだ、ということが言いたかった。
そう言える大きな理由として、「何もやらない」という選択が、他人や自分自身のなかの「他人の生死に深く関わって、助けたい」というような気持ちや、行動・言動への抑圧や反感につながってしまうということをあげた。それがもたらす荒廃、というか人を疲弊させるやりきれなさに比べれば、自分では納得のいかない仕方であっても「できる何かをする」ということは、少なくとも害が少ないとはいえる。
そして、実存的・倫理的な問題を別にすれば、「害の少ない行動を選ぶ」ということの意味は、決して小さくない、ということである。


ここで、さらに注釈をつける。というか、自分でもうまく整理できない点である。
上に「直接的に、明白に実効性のあること」と言ったが、この二つは、必ずしも両立しない。
これは、日々「直接的に」現場でそのような活動に取り組んでいる方の多くが、感じ悩んでおられることではないかと思う。あのエントリーにも書いたように、一人の地道な活動より、大物政治家の決断や、大金持ちの寄付や、大企業や科学者の業績のほうが、人を救うにははるかに実効性がある場合がある。
だから、ぼくが「間接的」な行動について「微力だ」と書いたのは、実効性のことを言ったのではない。
だが、それならどういう意味での「微力」さと言えばいいか。
実存的でないということだろうか?しかし、たとえば、野宿者問題についての研究や理論的考察に全力を傾けるというのは、「間接的」であるが同時に「実存的」だともいえる。
そうすると、直接的、間接的という区別がおかしいのか?
だが、たとえば全力を傾けた理論的考察であっても、それが野宿者である他人の存在への実存的な関心(個別具体の野宿者を知っていなくても)に裏打ちされていなければ、それはやはり本質的な営みではないと、ぼくは思う。
いわば、この現前・非現前の他人の存在に関わり、気遣うという意味での「直接性」ということであり、どんな行動・活動も(研究や理論などだけでなく、「夜回り」のような具体的行動も含めて)、そのような直接性の情動(?)に裏打ちされていなければ、それは本質的な行動ではない、といえるのではないか。


そして、この本質性に十分届いていない自分としての「無力さ」の感じを、ぼくは「微力」という言葉であらわそうとしたのだろうが、これも少し微妙な気がする。
あのエントリーでは、行動の直接性と間接性ということを、実存からの距離の遠近のようなことに重ね合わせて何か言おうとしたのだが、うまく整理できなかった。
むしろ、あの文章を書いている最後の段階で感じたのは、「無力さを感じている自分」と「無力でないと想像される自分」との間に、何か大事なものがあるようだ、ということだった。
社会的な存在としての「本質性」ということは、たぶん、この両方の「自分」に関わっている。


とりあえず、ひとつ言えることは、今の社会においては、他人の生命に対する自分や他人の気遣い、そこから生じる疚しさや焦慮のようなものを抑圧しないということ自体に、微力といってすませることのできない意味がある、ということである。


付記:一昨日の『長崎市長射殺事件の報道について』についても、後日補足のエントリーを書くつもりです。