サバルタン、もしくは複数的な私

mojimojiさんがsivadさんの記事に応答された、こちらのエントリー、そしてお二人の対話を、たいへん興味深く読ませていただいた。
とくに、「想像力」のある人とない人がいるのでは、というsivadさんのお話、そして「ない人」を組み込むような社会の倫理的な枠組みを作っていく必要があるのでは、ということは、ぼくも以下のエントリーなどで書いてきたと思う。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070430/p1
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070501/p1


じつはこのところ、ぼくもそういう立場から、何か新たに文章を書こうと思っていたのだが、同時に、自分のその考えの枠組みに納得できない面もあり、考えあぐねていた。
「納得できない面」という意味は、こういうことである。
ぼく自身は「想像力がない」という部類に入る人間であり、今回のエントリーでも引かれている、「倒れているホームレスの人のそばを通り過ぎる」というような場合にも、その通り過ぎるという行為をわりあい平然と行うことが大半である。そして、それが「見殺しにする行為」であるという認識があっても、その事実の重さは自分のなかで「括弧」に入れて、深く考えないようにすることに、困難をさほど感じない。
ただ、まず自分がそのように振舞っているということを、正当化するということ(その不自然さ)が不快である。また、そのように他人の生死に対して無感覚(冷淡)である現在の自分の態度を不問に付す、自分にとっての「自然」であるかのように受け入れることに、「どこか違う」という感覚を持つ。言葉にすれば、「それはこの自分ではない」という感覚といえばよいか。
いっぽうでたしかに、このような事柄について正面から考えることには、非常な抵抗(重苦しさ)を常に感じる。だからこそ、せめてその「重苦しさ」を(「この自分」であるために)手放したくはないと思う。なぜなら、そこで見出される「この自分」の方が、他人の生死に関わることを括弧に入れて生活している「自分」よりも、身近なものに思えるときがあるから。
そういったことなのである。


今回のmojimojiさんのエントリーは、そうしたことの核心の部分を浮き彫りにする内容であったと思う。
たしかに、「想像力のある人」「ない人」といった差異によって、人々をそれぞれの「自己」に分けてしまうということは、それは「リベラリズム」の立場になると思うのだが、人が人と関わって生きているうえでの、もっと根本的な相を見失わせる怖れがある。
このエントリーでは、それが「呼びかけ」という言葉によって示されているのだろう。
ぼくはそれを、「生の複数性」とか「土台のような場所」という言葉で言おうとしてきたが、もちろん舌足らずの表現である。


ここでとくに強調したいことは、「呼びかけ」は、本来「聴取不可能性」といえるものを本質として持っているのではないか、ということだ。
これは、「他者」というもの、「他者の呼びかけ」ということを、どう考えるかということに通じる。
上記の仮定の事例において、このホームレスの人が「助けてください」と声に出して呼びかけたのなら、問題は、これほど複雑にならない*1
声を出す力もない状態で横たわっている、それが肉体的な消耗によるものなのか、精神的・社会的とよべるダメージによるものなのか分からないが、ともかく他人に物理的なメッセージを送れる状態、その意志を持ちうる状態にもない、瀕死の人がここにいる。
その人の、「声」をどう聞き取るか、である。
これはよく、野宿者支援の現場にいる人に聞く話であるが、そして他のさまざまな支援や医療の現場で日常的に生じていることだろうが、「助けないでくれ」「救急車など呼ばず、このまま死なせてくれ」という瀕死の人たちは多くいるという。その人たちの声を、どう聞き取るかということ、それが「他者の呼びかけ」に関する問題の核心にある。


ちなみに、こちらのt-hirosakaさんのエントリーも、その困難で重要な事柄に関して語られているものだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20070528#1180321059


ぼく自身はよく知らないが、言葉を持たない他者といった意味で、「サバルタン」という言葉があるそうだが、他者にどう対するかということは、根本的には、その人のなかの「サバルタン」をどう遇するか、ということになるのではないかと思う。
見知らぬ人の中にも、家族や知人のなかにも、そしておそらく、自分自身のなかにも、「サバルタン」はいる。リベラル的な個への分割によって、声を封じられ眠らされ黙り込まされた「サバルタン」、別の言い方をすれば、「複数的な私」を、どうすくいあげるか。
根本的なテーマは、それであるべきではないか。


ただ、こうした一見神秘的な物言いは、おうおうにして、「声なき声を聴く」(岸信介)といった権力や体制側の論理に利用されがちであることには、注意が必要だろう。

*1:いや、本当は複雑なのだが、それは表面から消える