基本的ないくつかのこと

あまり複雑なことを考えられないので、以下で基本的なこと、大まかなことだけを確認しておきたい。
もちろん他にもこうしたことを述べている人*1はいるのだが、ここではできるだけ自分の頭で考えてまとめてみる。


まず、われわれは何を目的として生きているのか、ということである。
特別哲学的なことではない。生きている以上、われわれは何らかの「快」を求めるだろう。植物も動物も、そういう方向性が「生命」というものの本質を作っているように思う。では「われわれ」にとっては、それが目指すところの「快」の核心は何だろう?
自分ひとりが生きることだろうか。できるだけ長く、できるだけ安楽に、またできるだけ欲望や欲求を充足させて自分だけが生き続ける。そして死ぬ。そういうことだろうか?ほんとうに、そんな生を、われわれは望んでいるだろうか?
自由主義」を標榜する人には、人はすべて自分一個の利益や快楽(効用というのか?)だけを求めるということを当たり前の前提としている人が多いようだが、この前提は、ぼくには疑わしく思える。


ぼくは、ずっと以前にどれかのエントリーに書いたと思うが、「自分だけでなく他人も生きている」ということが、われわれが生きていること、そしてわれわれが生きるうえで「快」と感じることの、核心をなしているのではないかと思う。この場合、「他人も生きている」という後段は、「自分が生きる」ということに付加される条件ではない。他人の存在は、自分が生きていること(快という意味での)の核心をなしている。
そして、自分が一人の生存や利益を真っ先に、また第一に追求するという、自由主義的な人間観は、この「核心」の部分を、特定の方法で加工し切り詰めていったときに、はじめて表われてくるものではないかと思う。
そうだとすると、自分が生きることの核心の部分に、自分ばかりでなく、他人の生存、そしてその人自身として生きるということを保障したいという願望のようなものが、はじめから込められているということではないか。


そのひとつのあらわれは、われわれが、「家族愛」や「同胞愛」といったものを抱くことに見られるのではないかと思う。それらは、自分と同質的なものしか愛さないという意味で、たしかに利己的な要素が濃い感情だろう。だが、そこには、われわれがより基本的に、自分だけではなく共に生きている他人のことを思い、尊重しようとするという感情の、痕跡または兆しのようなものがあるのではないか。


ともかく、われわれがこの世に生きている感情や欲望の根本を、自分一個の生存や利益への関心にだけ還元することはできない。
完全に利己的な生の論理、「自分だけが」ということ、また、その延長としての「自分たちだけが」(この複数形は嘘なのだが)という論理は、私が生きていることの快の根本を損なうものだ。要するに、そんなつまらない世界を、生きている私は望んでいない。


次に、現在のこの社会では、他人の生存に対する強いられた無関心が蔓延している。
人は、自分のことだけを考え、その生存や利益だけ最優先して生きるのが当たり前であり、そうすべきだというイデオロギーが力を持っている。その延長上に、「自分たち」の共同体や国の利益を最優先にする思考もある。
この考え方の支配、それは言葉の上だけのものでなく、われわれにその論理のなかで社会生活を送ることを強いるものだが、それが私には不快である。
私は、この社会において、私(われわれ)本来の、他人の生存や生の質に関心をもち、ときには(それが一義的な正義とは言わないが)自分の生存や利益に換えてさえそれらを確保するために努力しようとしたりする生のあり方、自分にとってもっとも快いそういう伸びやかな生の姿を回復したいと思う。


ところで、この社会においては、国境の内にも外にも、その生存や生活を脅かされていながら、そのことに人々の十分な関心が向けられず、救済の手が差し延べられないでいる多くの他人がいる。
難民、野宿者、貧しさと不安定さにあえぐ若者たち、重病人や病棟の老人、障害者、これ以上列記しなくてもいいだろう。
問題は、この人たちの救済のために、どのような社会的な仕組みが必要かということである。今はっきりしているのは、現状の社会の仕組みにおいての経済発展が、この人たちを救うことはないだろうということである。
日本はすでに十分な経済発展をとげた「豊かな」社会だが、現実にこれらの人々は救済されておらず、むしろ今の仕組みを続ける限り、上記のような困窮者の数と割合は増え続けるだろう。
技術革新や規制緩和による雇用の不安定化は、今の仕組みのなかでは歯止めのかからないものだ。特に技術革新は、不可避的に生産業における労働力の需要を減らしてしまう*2。それにともなって低賃金労働だけが増大し、一方で医療を含めた社会保障の大幅な削減だけが急ピッチで進んでいく。
こうして、貧しい人、医者にかかれない人、路頭に迷う人の数が増えていく。
この「経済発展」は、それだけでは、困窮する人々を救済しない。むしろ、その数と割合を増やし、深刻さも増大させるのだ。
これはもちろん、国内的にも国際的にもいえることである。


「経済発展」自体は、いいことでも悪いことでもない。「富の増大」ということも同様である。
それらは、困窮している人たちの救済と、生活の改善に役立つ限りで、追求するべき価値となりうる。
現在の経済と社会の仕組みは、その意味では、価値のないものである。
だから必要なことは、困窮した人たちを救う分だけの再配分の仕組みが現行のシステムに付加されること、もしくは根本的にそういうシステムに変えてしまうことである。


付言すると、これまでのエントリーで触れてきたような、いま困窮している人たちの生命を救おうとする直接的な行動が支持されなければならないのは、それが私が生きていることの根本的なあり方(願望、欲望)にかなうものだからだ。
そうした行動だけで、問題解決に十分なのか、それは分からない。
だがたしかなことは、誰かがそれをやらなければいけないし、その数はできるだけ多い方がいいということ、そしてその人たちの行動は私の生きている思いの根幹にかなうものだということである。

*1:立岩真也氏など。もちろん、はるかに厳密な思考と言葉によって。

*2:少子化」という偶然の要因がそれを救ったとしても、生産や労働力のグローバル化は、その効果をたちまちふいにしてしまうだろう