先のエントリーへの補足・実効性について

上に「直接的に、明白に実効性のあること」と言ったが、この二つは、必ずしも両立しない。


これは、日々「直接的に」現場でそのような活動に取り組んでいる方の多くが、感じ悩んでおられることではないかと思う。あのエントリーにも書いたように、一人の地道な活動より、大物政治家の決断や、大金持ちの寄付や、大企業や科学者の業績のほうが、人を救うにははるかに実効性がある場合がある。


だから、ぼくが「間接的」な行動について「微力だ」と書いたのは、実効性のことを言ったのではない。


下のエントリーにこう書いたのだが、考えるとこの「実効性」ということも判定が難しい。
何をもって解決とするか、ということである。
たとえば、「ホームレス自立支援法」のような法律を整備、運用することで野宿者の数が表面上減ったとして、それがほんとうの解決になるか。現実的に「ほんとうの解決」ということにつなげるためには、現状の把握にもとづく幅広い議論が必要で、そのためには机上の計算だけでなく、やはり生きている他人の生命や生活への気遣いという「直接的な情動」の部分がやはり必要だ。
これは、金や技術に関しても同じことで、どう用いるかによって実効性は変わってくる。
その人が自分として、人間としてよりよい生活を送るためには、たんに政治家の行動や、金や、技術だけがあればよいというものではなく、その使い方が大事であり、それにはやはり他人に対する気遣いというか、情動のようなものが不可欠なのだ。


ただやはり、目の前で凍死しかけている人を救うには、毛布がいる。
飢えている人を救うには、パンを買う金がいる。
理念や構造や倫理の問題以前に、そういう最低限必要不可欠なものがあることはたしかである。
しかし、それだけで人間の生に関する問題が解決されるわけではなく、こうした事柄に深くコミットしている人たちは、それをよく知っていると思う。
それは、理論構築や法整備などの「間接的」な努力が重要であると同時に、それを生かしていくための、人々の「直接性」の部分、他人の存在を深く気遣う者としてのあり方を抑圧しないことが重要だ、ということを示す。