何も出来ないわけではない私

はじめに、既にお読みになった方も多いと思うが、生田武志さんのホームページで、先ごろ公表された厚生労働省による「ホームレスの実態に関する全国調査報告書」のことが言及されていた。
生田さんたち支援者の声に取材した産経新聞の記事の転載だが、読んでみて「なるほど、やはりそうか」と思う内容である。
「景気回復でホームレスが減少した」といった見方は、表面しか見てないということだろう。


さて、ところで、ぼくはこのブログに、大阪市での行政代執行のことをはじめ、野宿者の問題についても時々記事を書いたり情報を流したりしているが、これも何度も書いてるように、自分自身が「夜回り」などの日常的な「支援」のようなことに関わったことはないのである。

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働くことと生きること

先日のエントリーで書いた『カネと暴力の系譜学』のはじめの部分に、次のような一節がある。
ずっと気になっていることなので、それについて少し整理して考えてみる。

では、カネを手に入れるためにはどのような方法があるだろうか。
原理的にいえば四つの方法がある。難しい話ではない。


一、 誰かからカネをもらう。
二、 みずから働いて稼ぐ。
三、 他人からカネを奪う。
四、 他人を働かせて、その上前をはねる。


 最初の「カネをもらう」というのには、いろんなケースがある。たとえば、家族に扶養されていたり、生活保護をうけていたり、ヒモだったり、「パパ」がいたり、寄付や補助金をもらったり、といったケースだ。
問題はそのあとの三つである。じつはこれらは、よく見ると、社会の枠組みをくみたてている三つの柱にかかわっている。労働、国家、資本だ。(p10)

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長居での出来事についてまた考える

長居公園の行政代執行から、月曜でちょうど一週間がすぎました。
この間、それに関連した記事に少なからぬTBをいただいたり、ブログで言及していただいたりしたのですが、ここではそのなかからriruhiさんの記事の内容に答える形で、少し考えていることを書いてみます。
http://d.hatena.ne.jp/riruhi/20070208

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『カンバセイション・ピース』補遺

保坂和志の小説『カンバセイション・ピース』に関することの続き。


この小説では、人間と、家屋という人間や動物たちが暮らす空間(環境)との、分離できないような深い結びつきが書かれている。それは、人間が普段暮らしているなかで経験する、生き物としての感覚や感情、身体的な記憶が、環境のなかに刻み込まれている有様を精密に描き出そうとする試みだとも思える。
人間が生き物として経験する心の世界と、周囲の物理的な環境とが分離できないものであるという考え方には、アニミズムを思わせるようなところがある。また、日々の共同的な経験の積み重ねが、たんなる記憶や感情といった主観性にとどまらず、人々の生と心に対してある実質をもって作用するという考え方は、共同性についての考えとしては「保守主義的」なものであるともいえるだろう。

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デリダの論文「Fors」のこと

最近、この本が刊行されているのを知った。


狼男の言語標本―埋葬語法の精神分析/付・デリダ序文“Fors” (叢書・ウニベルシタス)

狼男の言語標本―埋葬語法の精神分析/付・デリダ序文“Fors” (叢書・ウニベルシタス)


訳者の方々が主催されている研究会や上映会(甲南大学で行われた)には、あるつながりがあって何度かお邪魔させてもらい、貴重な話を聞かせていただいた。

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怨恨の政治学

きのうのエントリーへの補足。
きのう書いたこととは逆の考え方になると思うが。


怒りと憎しみとが完全に分離できないことを前提として考えると、「憎しみ」(ルサンチマン)という、組織されてない非理性的な要素を、「怒り」の形成のために切捨てることは、かえってよくないことではないか、という気がする。
感情の力のすべてを、「社会が悪い」という構造的な認識のもとへと回収し、「政治的」な力へ組織するということには、たぶん無理があるのだ。
むしろ、「憎しみ」が有している各自の卑小な怨恨のようなものを無理に切捨てず、それとはまったく別の次元で「怒り」による連帯(政治化)を組織する方法を探ったほうがいいのではないだろうか。
つまり、「怨恨の政治学」。


それは、他人と同じ目的のために「小異を捨てて」合流し連帯するということではなく、否定しあい傷つけあう「小異」を残したまま「共に在る」ことを探るという方向だ。
「共生」でなく、「共在」。
衝突や誤解や軋轢、不透明な他人に傷つけられ、あるいは傷つけるという「恐怖」にもかかわらず、とにかく生きる場を共有するという態度。
このとき、「憎しみ」(怨恨)の次元は、理性によって否定(統合)されることなく、むしろ「怒り」(理性)にむかって不断に現実的な力(差異)を送りつづける。
二つの次元は、まったく解離し、個人を引き裂きながら、非持続的な連帯の場をその都度形成する。


たとえばゲーテッド・コミュニティは、他人への無関心や恐怖の現実化というだけではなく、他人との傷つけあいを回避しようとする、人間の弱さや優しさの現われでもあると思う。
カントが「啓蒙とは何か」を書いたとき、たぶん、そういう人間の優しさをどう乗り越えるかがテーマだった。


他人に傷つけられる恐怖ばかりでなく、むしろ自分が他人を深く傷つけてしまうかもしれない恐怖を克服して、「共に在る」意欲を、あるいは意志を持つべきなのだとおもう。


そのためには、つまり「恐怖とともに生きる」には、やはりある種の「解離」が必要だ。
その意味の「壁」は、誰もが自分自身の内部に、そして自分と共同体の「仲間」たちとの間に、築く必要があるのだろう。
他者へと開かれるための、いわば「友愛の壁」。


この「壁」によって、「怒り」の次元と「憎しみ」の次元とは隔てられ、隔てられることによって互いに生き延びながら連結する。
そういう他人との関わり方の作法、そして世界に対する共同的な力の行使の仕方を、共に磨きあげていくこと。
それをかりに「怨恨の政治学」と呼んでみたいのだ。