デリダの論文「Fors」のこと

最近、この本が刊行されているのを知った。


狼男の言語標本―埋葬語法の精神分析/付・デリダ序文“Fors” (叢書・ウニベルシタス)

狼男の言語標本―埋葬語法の精神分析/付・デリダ序文“Fors” (叢書・ウニベルシタス)


訳者の方々が主催されている研究会や上映会(甲南大学で行われた)には、あるつながりがあって何度かお邪魔させてもらい、貴重な話を聞かせていただいた。


それで驚いたのは、ぼくはこの本自体は未読なのだが、この本にも収録されているジャック・デリダによる序文「Fors」は、最初1982年に出版された雑誌『現代思想』の臨時増刊「デリダ特集」にも、若森栄樹、豊崎光一の訳によって掲載されたことがあり、ぼくはかなり以前にそれを読んで、ずっとそれについてここに書こうと思っていた。
北海道から帰ってからも、ずっと気になっていた矢先に、偶然この本のことを知ったのである。
デリダによる序文の前半部では、アントロジェクシオンとアンコルポラシオンと呼ばれる二つの概念の対立がテーマになっている。この論文の全体がぼくには分からないところだらけなのだが、ぼくが理解した範囲で言うと、アントロジェクシオンは、普通に考えられるような対象への愛ということらしい。以下の引用を読めば分かるように、アンコルポラシオンの方は、やや普通ではない。
「愛」というと、やや範囲が狭まるが、要は対象を自分のなかに組み込もうとする欲望の、二つの形態なのだと思う。そうするとこの話は、たとえば政治的な文脈に置いて読むこともできると思うのである。
ここでは、その若森、豊崎の訳による文章から、一節を引用してみる(ページは『現代思想』臨時増刊号第十巻第三号の一九九七年五月十日付け第四刷のもの)。

フェレンツィによって定義されたアントロジェクシオンとは自己愛的備給を拡張するのを可能にする過程である。対象を自我に内包することにより――そこからアントロジェクシオンの名が由来するのであるが――アントロジェクシオンは自我を拡張する。それは身を縮めはしない。獲得し、自己を拡張し、同化し、進展するのだ。「私がこの「内包」を強調したのは、それによって、私があらゆる対象愛(またはあらゆる感情転移)を、正常人においても神経症患者においても・・・・<自我>の拡張として、すなわちアントロジェクシオンとして考えていることを言いたかったからである。事柄を根本において捉えてみると、人間の愛はまさしく自分自身にしか向けられ得ないだろう。或る対象を愛するかぎりにおいて、人間はそれを自分の<自我>の一部として採り入れるのである。」(フェレンツィ)。(p118〜119)

誘惑者としての姉のアンコルポラシオンが残す「消しがたい痕跡」(そう、痕跡だ、それはまず前−言語的なものだから)は<自我>の内部に飛び地化され、地下蔵化され、納められた一個の矛盾を形づくる。それは解決とは言えず、むしろその反対物であるけれども、しかしそれは<対象>に向けられた攻撃性とリビドーを、内面化するふりをすることによって鎮めることを可能にする。クリプトはつねに内面化であり、むしろ妥協をめざす内包化であるが、しかしそれは寄生的組入れであり、<自我>の内部での異質な内、一般的内向投射の空間からは排除されて、その中に暴力で割り込んでいる内なので、クリプト的forは反復において、それが解決については無力な、致命的葛藤を維持するのである。(p118)


「解決については無力な、致命的葛藤」を維持することによって、攻撃性とリビドーは鎮められている。ここでは、そう書かれている。
これは自我の内部に、おそらくは曖昧なままに、「異質な内」を抱え込む(ただし、排除しながら)という方法である。
それは妥協にみちたやり方だが、一種の合理性をもっている、ということだろう。
ところで、アンコルポラシオンが見出されるのは、さしあたって「対象の喪失」という事態、それに対しての「喪の拒否」という態度においてである。

(前略)<自我>へのアンコルポラシオンは対象の喪失に一個の経済的解答をもたらすものである。「体内化された(アンコルポレ)」対象に、自我はこうして同一化しようと試みる。マリア・トロックが「引き延ばし」と呼んでいるものにより、自我はリビドーの再編成を待ちつつ喪失した対象への以前の備給を再我有化する。対象の喪失を、しかしまた悲哀〔喪〕の拒否をもしるすものである。こうした操作は、アントロジェクシオンとは異質であり、実を言えばそれに対立している。私は生きた死人を、手つかずのまま受入れるふりをする。ただし私の中を除いては。しかしそれは、必然的にどっちつかずなかたちで、死者を生きた部分として、私の中でを除けば死んでいるものとして、「正常」と言われる悲哀〔喪〕ならそうするように、アントロジェクシオンの過程にしたがって、死者を愛することを拒否するためである。それについては、もちろん、彼が他者を他者として(死んだ他者として)自我〔私〕の中に保持しているのかどうかといぶかることができよう。(p119)


喪の拒否。それは、ほんとうに他者に関わることだといえるのか。
デリダは別のところで、逆説的だが他者に開かれているのはむしろアントロジェクシオン(つまり自我の拡張としての、対象を同一化しいわば消化してしまうという意味での)愛の方なのだ、とも書いている。完全なる対象の消滅(同化)こそが、真の他者との関係なのか。
だが、そこでは攻撃性やリビドーを鎮めうるものは、何もないということになるだろう。


そして、アンコルポラシオンがあらわれるのは、必ずしも実際の対象の死という出来事においてだけではないと、ぼくには思える。
それは、もっと一般的に幻像と現実の関係に関わっているようなのだ。

アンコルポラシオンは幻像の領界に属する。(中略)<現実>とは違って、幻像はもろもろの場の秩序を保とうとする傾きがある。それが繰り拡げ得るすべての狡猾な活動は保守的、保護=予防的、「ナルシシズム的」目的に服従している。<現実>を現実として、つまりトピックを変形し、場所を変更するように強制するものとして指し示すのは、このような抵抗、拒否、打消しないしは否認である。(p121)


ここではおそらく、アンコルポラシオンという解決策のもつ、決定的な保守性、他者に対する、ひいては現実に対する否認の態度が語られている。
「喪の拒否」という仕方による他者の取り込みは、自己にとってはたしかに経済的な合理性をもつのだが、それは決定的に保守的でありナルシシズム的なのだ。
いったい、アントロジェクシオンとアンコルポラシオンの、どちらが本来的な、少なくともよりよい他者との関係性なのだろう。


ぼくはこの訳文を読みながら、デリダはジュネの『葬儀』のことを意識しながら、この論文を書いたのではないかと思っていたが、やはりある箇所で『葬儀』について触れられていた。
関連してもう少し書きたいことがあったが、それはまた別に書く。